福島泰樹『晩秋挽歌』(1974年)
秋の光がさびしいのはなぜだろう。
夏は暑くて直線的な光。冬は雪の空からくる鈍い光。そして春はすこし埃っぽいあっけらかんとした光。
秋の光は明るく澄んでいるのに、ついつい頬杖などついてみたくなるのは、風の温度に関係があるのではないかとつねづねおもっている。
肌に感じる感覚は感情とつながっている感じがする。秋のひんやりとした風が五感をとおしてきっと感情にまでおよぶのだ。
きみとわれ。「頒かつこころ」とは、別れるということではなく、ふたりが愛しあいながらも独立した「こころ」を持っているとよんだ。
いま、ここにいないきみ。けれどこころは強くきみをひきよせる。
それぞれは違う人間だけれど、「こころのきれぎれ」を感じられると信じている。
そうして部屋には、朝の光だろうか、夕方の西陽だろうか、光る窓がある。それはきみをおもうわれの窓であり、また、寂しいこころを照らす窓だ。まるで「さびしく微笑ている」ように光を放つ。
「窓がある」という結句が、「あり」や「ありぬ」では表現しえない渇いたロマンティシズムを感じさせる。