自らにつぶやくように小(ち)さくなりしかれども炎(ほ)はおさまりみせぬ

沖ななも『三つ栗』(2006年)

蝋燭の火にもガスの火にもそれぞれの表情があるが、薪や枯れ枝を焚くときの揺れやまぬ炎はいつまで眺めていても飽きない。
身をよじる火は生きもののようでもあり、ひとの情念そのもののようでもある。
和歌の時代には、ひとを恋する「思ひ」の「ひ」と「火」は、しばしば掛詞として用いられた。

いきおいが弱まってちいさくなった炎。
それがまるで、独り言をいっているようだ、と主人公は感じた。
表現の重心は叙景にあるが、そんなふうに感じた背景には、自分自身に問いかけること、自分自身に言い聞かせなくてはならない何かが、主人公自身にもある、あるいは、かつてあったからに違いない。
そして、その炎は燃えつきるかにみえて、なかなかおさまらない。

一首は牡丹焚火を詠んだ連作にある。
  牡丹粗朶焚けばこの世のことをもう忘れかけるか炎をあげて
地名は書かれていないが、福島県の須賀川牡丹園のものだろう。
毎年11月の第3土曜日の夜に牡丹の古木や折れた枝を焚いて供養する。
俳句を趣味とした大正時代の園主が、親しい俳人を招いてひっそり行っていたものが、次第に知られるようになったという。園主の知人でもあった俳人の原石鼎が
  煙なき牡丹供養の焔かな
と句に詠み、その後、牡丹焚火は冬の季語として歳時記にもとられた。

牡丹焚火の炎は、煙もなく燃えるといい、一方で紫いろの煙がただようと紹介する歳時記もある。
かすかにいい香りがするそうだ。
初冬の夕闇に古木を焚く炎は、ひとりひとりの胸のなかにさりがたく燃えつづける思いのあることを、見るひとに気づかせてくれるのではないか。

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