おそ秋の陽が氾濫する街をきて憎むこと多き愛をおもえり

久々湊盈子『熱く神話を』(1982年)

「おそ秋」。晩秋。
街路樹の葉も黄金や赤錆にいろづく。紅葉して美しく輝く葉を照葉とよぶように、
秋に感じる寂しさや景色の美しさはそそがれる陽によって際立ってくる。
秋の陽ざしはとにかくまぶしい。夏に感じていた暑さという肌の感覚がなくなったぶん、視覚に意識が集中していく。

「おそ秋の陽が氾濫する街」とは、そんなまぶしい陽ざしが街を照らし、照葉やビルの窓ガラスに反射する光が息苦しいほど身に迫ってくる若々しい感受性をおもわせる。

胸にあたためている愛をおもい、瞑目しているのだろうか。
愛をつきつめれば、誰もがすぐそばに憎しみがあることに気づき、おもってもみない自らの感情に怖気づく。
愛すれば愛するほど憎しみもついてくる。そうすると否応なく自分の醜さが見えてしまう。
そんなふうに、ひとを愛するときほど自分に向き合わねばならないときはないのではないか。

自分の醜さから眼をそらさずに、ときには葛藤し、ときには流れに身をまかせて、愛するひとと自分のいるべき場所をみつけていく。
晩秋のまぶしい陽ざしのなかに身をおいて、さらけだされた愛におもいをよせる。
すべてを受け入れることができるだろうか。
あせらず、時間をかけていこう。

「おそ秋の陽が氾濫する街をきて憎むこと多き愛をおもえり」への2件のフィードバック

  1. 憎むこと多き愛、という言葉が重くて、自分の最近の恋愛と重ねて読みました。
    愛というのを、その人のことを一日中考えているとか、大切に思うこととかと考える人もいるけれど、
    私にとっては、相手へのお節介や生身の言葉で傷つけあったあの日々が、そのまま「愛」だったのかしら・・・・・・。と。憎んだ経験はありませんけれど。

  2. 15日から旅に出ていたので今日(18日)になって拝見しました。
    これは第一歌集でもほんとに初期の歌です。10代の終りころ。
    ただ淡く恋をするのではなく、相手を憎むくらいに愛すること。
    金沢、能登、京都と紅葉を眺めながら遠く過ぎた日々を思い
    返していたので、ドキリとするくらい嬉しく思いました。

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