佐藤 弓生


わがピアノ薔薇のフェンスを越えゆけば苦しき日日は虚空に溶くる

徳高博子『ヴォカリーズ』

(2014年、短歌研究社)

 

薔薇の花ひらく季節になると、薔薇の詩人といわれる大手拓次の詩集になんとなく手が伸びます。その内実は、痛いほどのあこがれを薔薇になぞらえた象徴詩ととらえていますが、ところで徳高さんのこの歌の薔薇はおそらく実景でありながら、拓次作品に通じる痛みを感じさせます。

第2~3句がなにかの比喩のようにも見えてややわかりにくいところですが、このあと

 

えいゑんにわれを離れき。ほんたうの夢、音、楽。一切幻夢

ピアノ消え明るき部屋のティータイム隣りの犬の遠吠え聞こゆ

 

という歌が続くため、ピアノを手ばなした日のことであるとわかります。庭に薔薇の垣根があり、その向こうへ、長年連れ添ったピアノが運びだされる場面です。

「苦しき日日」は、かつて音楽を志した日々と、音楽の道を諦めるまでの迷いの日々の双方を指しているのでしょう。あとがきよると作者は声楽を学んだことがあり、「短歌も歌であり歌は声を伴うものである以上、(中略)声調の備わった短歌を希求していきたい」と述べています。

拓次の詩は望むものに手が届かない痛みを、徳高さんの歌は持っていた望みを諦める痛みをうたっていると思えます。どちらの痛みがより大きいかは判断できません。諦念の痛みは、悼みの心にも変わります。

 

をさなごの吾子の泣きゐる夢見より覚めて泪のごときを拭ふ

 

成長した子どもが夢のなかでは幼児だったことが、もの悲しい。掲出歌同様、過ぎた時間をそっと弔うような着地です。