すずやかな空の青さで顔を洗う心地のあした七月となる

五十嵐きよみ『港のヨーコを探していない』(BookPark:2001年)


(☜5月26日(金)「月と空 (8月)」より続く)

 

◆ 月と空 (7月)

 
顔を洗うとき、ふと、涼しげな空の青さを写し取ったような水だと感じる。そんな朝、七月に入ったことに気がつく――
 

雨のイメージの強い六月から夏の爽やかさに溢れる七月に切り替わったときの空気の違いが、くっきりと描かれた一首だ。
 

「すずやかな空の青さで顔を洗う」という長い箇所は、続く「心地の」で初めて比喩だと気付くようになっている。つまり、読み手が比喩と気付くまでは、まるで本当に「空」で顔を洗うようなスケールが大きい幻想的な映像が浮べることになる。比喩というものも、使い方ひとつでその効果は多様であることに、改めて気付かされる。
 

事実としては、ある日の二十四時を過ぎれば七月が始まる。しかし、朝起きて顔を洗うとき(六時や七時ぐらいだろうか)、その水の様子がいつもと異なることに気付いた瞬間に七月となる。時間という正確無比なものではなく、自身の感覚というやわらかいものから暦を感じている点に実感が滲む。
 

ベランダに並んでシャツを干しゆきて最後の二枚手をつながせる
腕時計も指輪もせずに休日は洗いざらしのTシャツを着て

 

連作のなかで続く二首を引いてみた。どうやらこの日は休日のようだ。新しい月の、気持ちのよい一日の始まりである。
 
 

(☞次回、5月31日(水)「月と空 (6月)」へと続く)