ヴェランダは散らかっていて六月の台風がもうじきやってくる

土岐友浩『Bootleg』(書肆侃侃房:2015年)


(☜5月29日(月)「月と空 (7月)」より続く)

 

◆ 月と空 (6月)

 

一首の言葉遣いは非常に平易である。ベランダが散らかっていること、そして台風が近づいてきていることの二点が述べられているだけである。
 

両者を繫ぐ「て」に注目したい。ベランダが散らかっている「のに/ところに」台風がくるから、と繋げば、続く思いは「ベランダを片付けなければいけない」という義務感や面倒臭さが全面に出たものだろう。
 

しかし、「と」で繋がれると上の句と下の句の接点が薄くなるように思える。ベランダが散らかっていて台風がくるからまぁ片付けるか、といった慣れ親しんだいつもの行いのようにも感じられるし、もしかすると、片付けずにそのままにしておくような感じもある。台風が来るという非日常に対して、主体のありかたがあくまでも日常的である点に、現実味が感じられる。
 

評の地の文ではあえてベランダと表記したが、一首においては「ヴェランダ」と表記されている点にも触れておきたい。アルファベットでは最初のスペルが「B」ではなく「V」から始まることを反映しているのだろう。私自身にとっては例えば「バイオリン/ヴァイオリン(violin)」の表記の違いはあまり感じられないが、例えば「バルブ/ヴァルヴ(valve:弁)」となると辞書を引いてスペルを確認したうえでの頭の整理が必要となる。「ベランダ/ヴェランダ」の表記の違いは、その中間ぐらいに位置するだろうか。
 

「ヴェランダ」と読んだ直後に、小休止を置くように(たしか「V」から始まったな)と思い、「は散らかっていて」と続けて読む。その小休止もまた、ベランダ掃除や台風がやってくるという出来事を小さなものごととして抑えておく効果があるように思える。同時に、「B」と「V」を丁寧に区別する素直とも言える正直さが、主体の在り方をどこか反映しているようにも感じられる。
 
 
以上のように、一年十二(三)ヶ月の空模様を見てきた。二十四節気という区分も歌の世界ではまだ生きているとは思うが、現代では季節を感じる最小単位は「月」になっているのかもしれない。
 
今日はまだ五月の空であるが、明日の空は六月の空である。
 
 

(〆「月と空」おわり)