朝雁よ つがひを群れを得て我はあまたの火事の上を飛びたし

七戸雅人「果樹園の魚(うを)」(「羽根と根」創刊号、2014年)
※( )内はルビ

 


 

七戸雅人の歌には以前から興味を引かれているのだが、それを言葉にしようとするとうまくいかず、結局よくわからなくなる。でも取り上げたいので書きます。

 

「果樹園の魚」は15首からなる。次のような歌もある。

 

木蓮が地へやはらかく落つるたびいづくにか人の歯は生え揃ふ
岸を分かつ川のごとくに封筒を切り ほそながき此岸は捨てつ
風といふ無数の腕をもつものよ一つわれにも胸倉があり
自嘲より自省へかへる明け方の蘭の空輸をとほく聴きゐき

 

どれも緊張感のある韻律を含みもつ。音の構成にどこかしらつめたい手触りがある。kとtの音が一首ずつの硬度をやや上げているような感じがする。やわらかくなめらかなようで、そうとも言い切れない音の流れがある。

 

木蓮の白い花のイメージと歯の白を重ね合わせているのだろう。しかしそれが「生え揃ふ」、特に「揃ふ」というところまで描ききるところに、想像を突き詰めていく、ある厳しさのようなものを僕は感じる。
封筒のその切り口が、一首全体の音と「切り ほそながき」の一字空け・句跨りをともなって鋭く迫る。彼岸でなく「此岸」を捨てるところに思考の跡がある。どこか寒々としている。
「風」の「無数の腕」に、あるいはそのうちのひとつに、自分の「胸倉」を摑ませようというのか。摑んでつよく揺さぶってほしいという願望かもしれない。あるいは、風の腕が伸びてきたその先でこの「胸倉」は、風によってなんらかの音を立てるのかもしれない。
「蘭の空輸」といってその映像を見せながら、実は聴覚によってそれを感受しているというところに、空を行く「蘭」との隔たりを感じるのだが、それは、この「自嘲」から「自省」(卑屈から抜け出し、理性を回復したということか)へと自らを取り戻した安らぎを表していると読むこともできそうだ。「かへる」が読みどころで、実はこの「自嘲」より前にも「自省」があったことを暗に示しており、その思考や感情の起伏の大きさや時間の長さを感じ取ることができる。

 

今日の一首。たくさんの危機的状況や滅びを傍観しながら、仲間とともに飛ぶ。呼びかけとも詠嘆ともつかない初句「朝雁よ」には、どこか陶酔するような声も感じられるし、また、「上を」飛ぶ、だからそれは単なる傍観ではなく、万能感に近い感慨もにじませているように思う。それからおもしろいのは「つがひを群れを得て」。「つがひ」と「群れ」では、自らとの関係のありようがだいぶ異なると思うのだが(たとえば「つがひ」のほうに思い入れがつよく感じられてもおかしくない)、そうでなく、ここではまったく並列して、強弱なく扱われている。「つがひ」「群れ」がそれぞれ、「我」にとってどんな意味とその違いを示しているのかは、ついにわからない。しかしそれでも、ともに飛ぶ他者の存在を期待している。「我」にとって、「雁」にならなければ得られないのが「つがひ」や「群れ」といったものなのだろうか。そしてその上で「飛びたし」という願望が示される。火事の上を飛ぶことだけでなく、「つがひ」や「群れ」を得ることも願望としてそこにある。

 

……と読んできて、もしかしたら、先に述べた「陶酔」や「万能感」というのは言い過ぎで、この一首には願望というか、まっすぐな〈祈り〉のようなもののほうが濃くあらわれているのかもしれないな、などとも思う。結局浮かび上がるのは、「雁」にはなれず「つがひ」や「群れ」になることもかなわず、「火事」を傍観することもできない「我」。いや、たとえそうであったとしても、それを感傷とともに味わうような歌ではないとは思うけれど。初読のとき僕は、むしろ解放感を感じた。仲間の存在を感じながらこんなふうに飛べたらどれほど気持ちがよいだろう、などと素朴な想像をしたりもした。

 

「羽根と根」5号6号と七戸の歌が掲載されなかったので、これはもしかしてもう「羽根と根」では新作を読むことができないのではないかとちょっと不安だったのだが、この5月に発刊された第7号で読むことができた。次回も七戸の作品を読む。