どうしようもないことだけでできているアネモネだから夜を壊そう

なかはられいこ「あねもね地域連絡網」(第一回歌葉新人賞佳作作品)
※引用は「短歌ヴァーサス」創刊号(2003年:風媒社)より


 

ホームセンターの熱帯魚売場で透明な魚をみたことがある。小さな熱帯魚で、身体がほとんど透けていて、骨格だけが水のなかをひらひらと泳いでいるようだった。不思議な生き物もいるものだなあ、と思った。
掲出歌に感じた透明感はあの熱帯魚に近い。なにか一首のなかに背骨、筋が通っているのは感じられるし、それが骨格標本なわけではなく生きて動いているのもわかるのだけど、歌の肉付きのようなものがみえない。肉付きがみえないのは、歌を構成しているいくつかのパーツ、「どうしようもないこと」や「アネモネ」や「夜」の配線が変だからだと思う。わたしは「どうしようもないことだけでできているアネモネ」のことをしらない。なにが「だから」なのかわからない。「夜を壊す」は直前にアネモネという手に持てるものが出てくるせいか物理的な破壊のように思えるけれど、夜って物理的に壊せるんだったか。これらの謎をそれぞれなにかのたとえ話としてひとつずつ読み解く、あるいはこじつけることはできるし、その作業を踏むこともこの歌は受容してくれるかもしれないけれど、この歌は肉がないほうがきれいだと思う。「〇〇でできている△△だから××を壊そう」という日本語としてはまっとうな構文を仮の乗り物にして、それぞれのパーツが持っている気分のようなものが視界に残される。気怠さ、諦め、蛮勇、儚さ、高揚、いろいろな感情の形跡がひらひらと泳いでいる。

 

うっかりと桃の匂いの息を吐く/なかはられいこ『脱衣場のアリス』
ひらがなを覚え始めた頃の赤
点滴が終わる菜の花畑かな

なかはられいこの本業(?)は川柳作家である。短歌作品は掲出歌の引用元である第一回歌葉新人賞で候補に残った連作のほか、「題詠マラソン」への参加作品などを作者本人のブログで読むことができる。なかはらの短歌を読んでいると「川柳になにかが付け足されたもの」と「川柳が引き伸ばされたもの」の二種類に分類したくなる。そして、それはなかはらが川柳作家だからではなく、歌人によってつくられた多くの短歌にもその分類は適用できるのではないか(とはいえ、一首の前半にアクセルを踏みがちななかはらの短歌のペース配分には川柳の癖は感じるし、それによって短歌のなかの川柳性をよりわかりやすく浮かび上がらせているところはあるけれど)。掲出歌が含まれる連作中からだと〈陽に灼けた洗濯ばさみがわたしですカナリア色のタオルをつまむ〉や、〈お父さん、みな葉桜になりました。背中の痣もあなたの声も。〉は前者であり、それぞれ上の五七五だけでほとんど完成していて、下の七七はそこに寄り添うように内容を補足しているだけだ。掲出歌はこの分類でいうなら後者、一つの川柳が引き伸ばされたものだといえる。掲出歌は内容的には切り詰めれば川柳にもなるだろうけど、歌から部分的に川柳を切り出すことはできない。そして、なかはらの作品の上でも、あらゆる短歌にとっても、後者のほうが優れていると思う。前者においては、身もふたもないことを言えば、下句を切り落としたほうがより純度の高い表現になるからだ。川柳と見比べるとき短歌の「短さ」のアドバンテージは消えてしまう。三十一音も必要ない、「日本語のいちばん短い詩」はたった十七音で充分なのだというおそろしいことに気づかされてしまう。短歌にあるのは定型の短さではなく、長さなのだった。長さのなかで引き伸ばされてちぎれそうになっている言葉、水飴のように透明な表情が短歌にとって川柳の風通しのよさに立ち向かえるものだろう。

 

そうですね、たとえば科学館にある化石の貝に陽が射すような/なかはられいこ