堤防に続く景色に追いつかれそうでしずかに手袋はずす

本田瑞穂『すばらしい日々』(邑書林:2004年)


 

停電はまだなおらない気になった靴に片足さしいれたまま/本田瑞穂
食べかけの蒸しパンおいたまま眠る蒸しパンいつまでふかふかのまま

歌のラストを「まま」と止めるとき、歌にながれる時間が引き伸ばされる。「〇〇のまま」という結句はもちろん見慣れたものだけど、この二首の変わっているところは、一首目の「まだ」、二首目の「いつまで」がそれぞれ「停電」も「蒸しパンのふわふわ期間」も限定的なものであることをはっきり示しているところ。そのうち終わることはわかっているのに、いつまでも続くかのような錯覚を起こさせる「まま」。数十秒や数時間のタイムリープのようだ。
二首目は何回読んでもぐっと切なくなるのだけど、それは蒸しパンがふかふかでいる時間は実際のところかなり短いから、ではないと思う。(起きたらふかふかじゃなくなっててがっかりするんだろうな、という予感による切なさはちょっとあるかも。でもそれはさておき)短歌で物の寿命が詠われるとき、そこには「わたしの生命」が投影されやすく、とくにこの歌の場合は「食べる」「眠る」と身体の営みを切り出しているのでなおさら話が「わたしの寿命」に寄りそうなものだけど、この歌からは自分の話をしている印象がない。それはたぶん上句に比べると奇妙に時間が引き伸ばされすぎている下句が、人間ではなく蒸しパンの一生を基準にした時間の流れに同期されているように感じさせるからで、上句と下句のあいだにはひそかな切断がある。それによって「わたしはいつか死ぬ」ことではなく、「わたしとは無関係にいろいろなものは死んでいく」ことを言っているのがこの歌の眼目だと思う。

 

掲出歌の「しずかに手袋はずす」は、上の二首の「まま」をすこし長くしたバージョンだと思う。つまり、ブックエンドのように「追いつきそうな景色」を歌に閉じこめている。
「堤防に続く景色に追いつかれそう」というのはかなり主観的な感覚だけど、「しずかに手袋をはずす」のは誰がみてもあきらかな光景だ。ここを外からみるような意識があることは描写的な「しずかに」にもあらわれているだろう。ここには誰が立ってもいい。誰の手でもいい。景色という大きなものが小さな個人の動作に転換するようでいて、この歌に起こっている転換は逆なのだと思う。ある一瞬の感覚が、うしろに普遍的な動作が置かれることによって冷凍される。
「追いつかれる」という現象自体が速さがちがう二者間に起こることで、この上句に読みとれる「なにか自分と速さがちがうもの」への鋭さは、追いつかれもせず、追いこされもせず、あくまで「追いつかれそう」という危うい位置関係のまま保存される。

 

本田瑞穂『すばらしい日々』は、前回取り上げた『カツミズリズム』と同じ年に発行されていて、だからなのかこの二冊は切り取られる場面やモチーフには重なるところが多かった(なぜかどちらにもマーブルチョコが出てきたりする)のだけど、『カツミズリズム』の文体には「いまはこういう歌を作る人いないな」という新鮮さがあったのに対して、『すばらしい日々』はあまりに古くなっていないことに驚いた。いま一瞬にすべてを賭ける作者はそれに適した文体を、時間のながれをねじまげることを志向する作者もまたそれに適した文体を掴みとるものなのかもしれない。

 

いい歌多かったので最後にもう何首か。

夜ばかりひろがっている橋の下おおきな口のあかるい歯医者
雪の降ることを知らせる遠雷は最後の一パーセントみたいに
呼びあって眠る鳥たちともだちの定義もなにもいらない夜に