蛍橋けふも渡つて買ひにゆくJAあをばの葉付にんじん

渡英子『龍を眠らす』(青磁社、2015年)

 


 

東日本大震災に関連した歌の目立つのが『龍を眠らす』なのだが、今日の一首のような歌にも僕は惹かれている。

 

日付シール頭に載せて並びつつ眠る玉子を取り出すふたつ
蛍橋けふも渡つて買ひにゆくJAあをばの葉付にんじん
雲ほぐす風の指みゆ夕空のどこかに沈む船のありなむ

 

歌集のなかでこんなふうに並んでいるのを読んだとき、この3首をしばらく見つめていたいような気持ちになった。生活詠としてのさりげなさがよいとか硬派な内容(念のため言っておくが、『龍を眠らす』の歌の韻律は、決して硬くはない。やわらかで独特の弾力があると感じる)にあってほっと一息つけるとかいうふうに言うと、元も子もないというか、僕の初読の感想とずれてしまう。そういうことを僕は言いたいのではない。印象的なのは、動きや視線のひとつひとつがいかにも丁寧であるということ。

 

一首目。「並びつつ」の一語によって、複数として提示される玉子。その「日付シール」のひとつひとつが見えてくる。北原白秋の〈大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも〉ではないけれども、玉子の群れ(という言い方も変だが)にぐっと寄った描写のあとで、そのうちの「ふたつ」が手に持っていかれる。そして読み終えると、白秋の歌で言うところの「大きなる手」の主、人物が見えてくる。「取り出す」という動作が人物を見せる。玉子や手を拡大していた映像がふっとかすんで、人物が映り込んで、ごく日常的な一場面があらわれる。そこではじめて生活ということが意識される。

 

今日の一首。(固有)名詞のひとつひとつが丁寧に配されている。ただ、「蛍(橋)」「(JA)あをば」「葉付にんじん」のそれぞれが色彩とともに詩情をかもし出す、というふうには、僕は読んでいない。それぞれの名詞が自動的に呼び込んでくる「蛍」や「青葉」のイメージによって抒情が助けられる、という感じはしない。そのような効果とは別に、身のめぐりのひとつひとつの名詞を歌に置き据えていった、という印象がある。蛍と青葉とにんじんの連関はそれらだけではやや薄く、だから橋やJAのほうが目立つ、というのがその理由かもしれない。そのなかで、「けふも」と「買ひにゆく」(特に、「ゆく」のあたり。意思が見える)に人物が見えてきて、その人物の動きが、「蛍橋」と「JAあをば」と「葉付にんじん」をつないでいく。つながれてはじめてひとつの景となる。そして、けふ「も」、と示されたくりかえしの時間のなかでこの風景や食べ物はこの人物の身になじんでいったのだろうな、と感じる。たのしんでいる様子もうかがえる。ある特定の時間を身体化した人物が見える。〈時間〉や〈景〉が身体にしみこんでいく(しみこんだ)そのありようこそが、この歌の読みどころであり、魅力なのではないかと思う。

 

この歌の構造のもとでは、「蛍橋」も「JAあをば」も「葉付にんじん」も、別のモノ(語)に置き換え可能だろう。けれども、その「置き換え可能」というありようこそが、この歌が固有名詞を散りばめながらも匿名性を手放さず、それによってむしろ読者ひとりひとりの感受に寄り添えるということを保証していると思う。

 

そういったなかであらわれる三首目の「沈む船」は、非日常的な、なかなかスケールの大きい発想であるにもかかわらず、また、「沈む」は不穏を喚起するような語であるにもかかわらず、前二首とのかかわりのなかで、むしろほのぼのとした印象をさえにじませているように思う。日常を離れないところにこの「沈む船」、そして「風の指」が見えてくる。

 

つぎつぎと自転車倒れみなもとに途方に暮れる老人がゐる
ゆふぐれは空を占めつつわたくしは尾を仕舞ひつつガス火をともす
「晩ごはん」と呼ぶとき秋は深くなる土鍋に煮えてゐるキャベツ巻/渡英子