睦月都/歩むこと知らずひた立つ橋脚が彼岸に渡すわれの自転車

睦月都(角川短歌賞受賞後第一作「ゆふやみと強盗」『短歌』2017年12月号)


 

・歩むこと知らずひた立つ橋脚が彼岸に渡すわれの自転車

 

橋も、それを渡る人も様々に詠われてきたモチーフであるだけに、睦月さんの特徴が際立っているように思った。ここでは橋脚の辛さのようなものを見つめながらその橋脚が自分を逃してくれるもののように詠われていて、その自分も、自分として詠わず「われの自転車」といように、焦点から逃している。だから、歩かない自転車のスムーズな前進のなかに、心の安堵のようなものが訪れるのだ。

 

・悲傷なきこの水曜のお終ひにクレジットカードで買ふ魚と薔薇

・わが飼へる苺ぞろりとくづほれてなすすべもなし春の星夜に

角川短歌賞受賞作「十七月の娘たち」(「短歌」2017年11月号)

 

たとえば、これらの歌では、前半で主体の心象的なものが描かれるわけで、そこを切り詰めていく、あるいは飛躍させるように下句に降りていくのが一般的なように思うけれど、後半では「買ふ魚と薔薇」、「春の星夜に」というふうにどちらかというと拡散していく。殊に二首目では、前半のグロテスクにさえ感じられるイメージ(音の面では濁音が多い)に対し、「なすすべもなし」と案外あっさりと「春の星夜」に投げ出している感じがある。

 

無防備と言えばいいのか、主題としては重いものを持ちながらも、最後までそれを握り締めるのではなくて、おっとりと違う視界に逃がすようなところがあって、ふっと空間が開けて、救われるような気がする。

 

前回、和歌的な発想が土台にあるというような指摘をしたけれど、その特長は、「十七月の娘たち」でも生きている。そして、それが、パラレルワールドという現代的な発想と、ふしぎに融合する。それはさながら、現実空間にまどろむようにして、幻想の沼から魚とか薔薇とか娘を釣り上げているような、彼女独自の歌の包容力のなかで融合する現実と幻想でもあると思う。

 

それにしても、前回の「人界暦」からたった一年でこれだけの完成度に至る過程にも興味のつきないところである。

 

なお今日、私が書いたような感触は、染野太朗さんの、日々のクオリア、2018年1月18日20日の回で書かれていることとも響き合う気がしている。