生沼義朗


生活に仕事がやがて混ざりゆく鉄芯入りの靴で外へと

廣野翔一「泥、そして花びら」(個人誌「浚渫」・2017年)

 


 

「浚渫」は、「塔」「穀物」「短歌ホリック」などに所属する廣野翔一の個人誌である。3部構成で、ⅰが短歌作品「泥、そして花びら」30首と「春祭、post-truth」14首の計44首、ⅱが2017年2月から3月にかけての日記、ⅲが短歌に関するエッセイとなっている。

 

タイトルの「浚渫」は、港湾・河川・運河などの底面を浚って土砂などを取り去る土木工事のこと。この語を個人誌の誌名にしたことについて廣野は「馴染みの無い言葉かもしれないが、少し前から暖めていた言葉」とあとがきに記す。深読みかもしれないが、作者のその時点での精神や心理を象徴する言葉のように思える。

 

上句の「生活に仕事がやがて混ざりゆく」は作中主体の感情の描写で、仕事と私生活の境界が次第に曖昧になってゆくさまと読んだ。「やがて」がポイントで、ここに将来への冷静な類推と不安感が滲んでいる。

 

三句で意味的にいったん切れ、下句は明確にカットが変わって具体的な場面の描写となる。「鉄芯入りの靴」は安全靴で、主に工場や工事現場などの危険を伴う場所で使われる、足を保護するための作業靴のことである。足先への重量物の落下や釘などの踏み抜きから足を守るため、靴の先端や中底が鋼板や硬質の合成樹脂で作られているのが特徴だ。安全靴と一言で言わずあえて「鉄芯入りの靴」と言うことで、スポーツ選手が競技前にルーティンと呼ばれる行為を通して集中力を高めてゆくように、自分の中に気合いやエナジーを注入するような効果がある。そして外へ、おそらく業務のために出かけてゆくのだ。

 

 

自販機にアクエリアスを購入す素直に落ちる音と思えず
液晶は闇を張りつつしずかなりしずやかなればわれは眠りぬ
学生にあらざることを悲しめりふたりであれば酒の要ること
散財をすべし 百円玉入れる度クレーンの爪の空振り
状況が人をあきらめさせるから多忙の後に返す私信は
絡まりし思索より急に抜け出せり水際の街に雨降りはじめ
少し見ていいですかって聞かれてる春の時間は使うしかない
黒いストラトキャスターを傾けて弾く人、午後の小さき舞台に

 

 

他の歌から何首か抄いてみた。どの歌も端的に五七五七七の形で景色が差し出されている上に、作中主体の感情や思考の流れがはっきりと感じられ、読者が共感しやすいだけでなく、さらにその奥にしみじみとした良さを感じ取ることができる。

 

「浚渫」を初読した際に、仕事の歌が多くかつガテン系のイメージを勝手に抱いていたので、あらためて読んだときに収載の44首がそのイメージとかなり異なっていたのは意外だった。そこは廣野に対して申し訳なく思っている。念のため補足しておくと、ガテン系とはいわゆる肉体労働者を指す俗語で、リクルートが出版していた「ガテン」というブルーカラーに特化した求人情報誌に由来する。

 

ここで思い出したのは、ワーク・ライフ・バランスという言葉である。文字通り、「仕事と生活の調和」という意味だ。日本では2007年に「仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章」が政府、経済界、労組などの合意によって策定されているので、ここ15年くらいの間に発達してきた概念と言っていい。

 

「浚渫」の歌は、作品においても生活と仕事の調和を取ろうとしているバランス感覚をかなり強く感じた。仕事だけではない複数の要素がからみあってはいるのだが、渾然としていて要素と要素の境界が見えにくくなっている。おそらく意識的なもので、仕事だけで〈私〉が構成されているわけではなく、ましてや短歌に表現される〈私〉だけで〈私〉が構成されているはずもないという考えの表れと感じる。

 

その意味でまさに現代を生きる社会人の職業詠であり、個人誌「浚渫」が強く印象に残った理由でもある。