睦月都人界にたちこむる異臭嗅ぎわけつ台湾料理「瑞鳳」へ往く

睦月都「人界暦」『歌壇』2016年5月号


 

はじめて、私が睦月都という歌人を意識したのは、「歌壇」2016年5月号の「若き才能を感じる歌人たち」という特集でのことだった。ここには、16名の若手歌人が集められていて、既に同人誌や新人賞などで知っている歌人もいたけれど、思えば山下翔さんの作品などもここで初めて読んだのだった。

 

それにしても、睦月さんの作品は、印象的だった。

「人界暦」という七首の一連で、

 

・雨後晴れて枝に留まるしづくへと囚へられたる空のいくつか

・花の縁やや焦がれたる山茶花の散るや散らぬやこの閑日月

・虚(おおぞら)に扇ひろぐるひよどりやここ地獄へも風送らむと

・人界にたちこむる異臭嗅ぎわけつ台湾料理「瑞鳳」へ往く

・物の音沈殿しやすき春の夜へ誰か叫べど、澱ゆらぐのみ

・水源なき寝室にわれは醒めにしが水鳥の羽根あまた散らばる

・夜の底に永遠(とは)にボレロは響かはむすでに人類は過飽和なれども

 

一首目の、「しづくへと囚へられたる」と、一端フォーカスされた視点は、その後「空のいくつか」と拡散していく、ここには和歌的な発想が下地にある気がする。二首目も、「散るや散らぬや」というような妙に古典的な調子がある。三首目のように、いかめしく、大仰でもあり、けれども、「大虚に扇ひろぐる」が、孔雀とか鷲とかじゃなくて、その辺の「ひよどり」だったり、歌のモードが一様ではなく、そのために却って風が吹きぬけるような無防備さがある。現代短歌の様々の中でも毛色が違うというのか、得体の知れない歌柄だった。睦月都という名前と顔写真と、「かばん」所属ということと、歌を学びはじめて一年ほどは、葛原妙子の歌集を持ち歩いていたという、簡単なエッセイを、まじまじと眺めても、どこか浮世離れしていて、どんな人なのか想像がつかなかった。

 

なかでも、印象的だったのが、今日の一首。

この一連にあって「台湾料理『瑞鳳』」の登場に目を奪われたということもあるのだけど。

 

・人界にたちこむる異臭嗅ぎわけつ台湾料理「瑞鳳」へ往く

 

「人界」、「異臭」というような硬い漢語、「たちこむる」という大仰な文語が目につく一方で、「台湾料理『瑞鳳』」という風俗が突如投げ込まれる。これらを繋ぐのは「嗅ぎわけつ」という動詞であるわけだが、この主体、まるで野良犬のようなありさまで、けれども「嗅ぎわけつ」の文語は、高貴な感じすらする。そして何よりもこの歌は真剣である。真剣に、巷で匂いを嗅ぎわけて、台湾料理屋に行く、というだけ!?

ああ、びっくりした。

 

作者の歌のモードに引っ張りまわされ、異界を連れまわされたような気分だった。

 

のちの2017年、角川短歌賞受賞作「十七月の娘たち」の完成度の高い文体を見れば、この時点の睦月さんの作品は、まだまだ未完成の要素を多分に残している。けれどもこれらの作品には才能がほとばしるときの異様な生々しさがあって、私は読むたびにちょっと動揺するのだ。