澤村斉美/鳥は影を、水に映れるみづからをなにと思ふらむ「少し陰つた水」

澤村斉美第二歌集『galley』(青磁社・2013年)


 

渡り鳥というものは空高く飛んでいく(来る)ように思っていた。「秋の田の穂田を雁がね闇けくに夜のほどろにも鳴き渡るかも」(聖武天皇『万葉集』)は渡り鳥ではないのかもしれないけど、「鳴き渡るかも」には鳥の飛翔する空の高さや距離の長さが感じられて、私はこの鳥が海を渡ってきたような気がするし、私たちが地上から見上げる鳥はいつも空のかなたに飛んでゆく。だけど、たとえば白鳥は、シベリアから4000㎞の距離を約2週間かけて日本に上陸するという。そんな長距離を、長時間、鳥の一群が上空で飛び続けられるものだろうか、とあるとき疑問に思い、調べてみたことがある。本には、渡り鳥の多くは、海上にあっては海面の少し上空を飛びながら、時に海に浮いて羽をやすめ、遠い遠い陸を目指すのだと書いてあって、合点がいったのだ。ちなみに、これまで渡りの鳥は半球睡眠(脳の半分ずつ眠らせる)をとっていると考えられていたが、最近の研究で、鳥は飛翔中でも夜になると熟睡している瞬間があることがわかったという。その間、自動飛行モードになっているというのだ。

 

さて、澤村さんのこの歌の鳥が果たして渡り鳥であるかはわかならいけれど、私には、そうやって海面の少し上空を飛ぶ鳥の姿が思い浮かぶ。それは、鳥と、映る影とが、長い時間をともにしているような印象があるからだ。「水に映れるみづからを」には、長く、そのみずからの陰と平行に飛んでいるような印象がある。池や川や湖からの一瞬の飛翔、すぐに空へあがっていくような飛翔であれば、「なにと思ふらむ」というようなおもむろな思考は生まない。そんなふうに澤村さんが思うときには、既に空のかなたに鳥は飛んでいるはずだ。この歌には停滞するような思考の流れの遅さがある。そして、その思考は澤村さんの想像でもある。これは目の前の鳥を見て咄嗟に感じ取ったというよりも、心のなかに長い時間の経過がためた思いの澱のようなものが、実際には見たことのない、鳥の長い長い渡りの時間の、その断片を空想のうちに見ているような、澤村さんの空想の重い存在感がある。それは、際やかな認識ではない、「少し陰つた水」という鈍い翳りのようなものをとどめる。「みず」と「自ら」の韻が、水面を通して反照するように、どこまでも続く空と海面の間の空間にこの鈍い認識だけが存在する。「少し陰つた水」という認識を「」で置くという結句は大胆であるし、ほかに例がないように思うけれど、それは、レトリックのうまさとしてよりも、なお、鈍い光沢が、重い曇天のように横たわっているところに、思いの翳りが定着されているのである。