生沼義朗


春日いづみ/手鎖の刑を受けしか今朝の夢弓手の手首に痺れ残れり

春日いづみ『塩の行進』(現代短歌社・2018年)


 

春日いづみ『塩の行進』は第4歌集。2013年から2015年まで、総合誌「現代短歌」で連載された、20首一連の作品8回分の160首が一冊の中心になっている。

 

掲出歌は、生活の中で得られる実感を身体感覚をともなって詠っている。歌意は、今朝の夢ははっきり覚えていないが、弓手つまり左手の手首にしびれが残っているので、実際は寝ている間に左手に体重がかかったりしてしびれたのかもしれないが、実は夢の中で手鎖の刑を受けたのかもしれないということになる。手鎖とは江戸時代の刑罰で、前に組んだ両手に手錠をかけ、30日、50日、あるいは100日の間自宅で謹慎させるものである。牢に収容するほどではない軽微な犯罪や未決囚に対して行われたという。

 

だがこの歌はそうした感覚や漠然とした危機感に留まるものではない。なぜなら、掲出歌の後には

 

 

五十日の手鎖の刑受けたると歌麿「太閤五妻洛東遊観之図」に
筆を持つ手に掛けられし鎖とぞ江戸に封じられし「表現の自由」

 

 

といった歌が続く。ここに春日の関心と問題意識がある。「歌麿」はもちろん喜多川歌麿だ。「太閤五妻洛東遊観之図」は豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵で、これを描いたことで歌麿は幕府から手鎖50日の処分を受けた。浮世絵の中で描かれた、北政所や淀君らに囲まれて花見酒に耽る秀吉の姿に、当時の第11代将軍徳川家斉を揶揄する意図があったと見なされたためである。時は文化年間で、町人文化が著しく発達した時期だが、一方でまだ表現の自由という概念は日本には届いていない近世でもあった。そうした意識が下句の表現に率直に滲み、また上句の「筆を持つ手」に表現者の危機意識が及んでいる。

 

 

二〇一八年二月十三日、朝日新聞「分断はなぜ起きる」。

朝刊に腕を広ぐるレフ・ワレサ息づきてくるわれの奥処が
杖をつき平塚らいてう歩きたり安保廃棄デモいのちのをはりに
梅咲きて「建国記念の日」は来たり 春はうららかわが血は沸かず

一九三〇年三月十二日、サバルマティを出発。

三月の春のあけぼの杖を手にガンジーの発ちし「塩の行進」

四月六日、ダンデイ海岸に到着。大英帝国の専売を無視して塩の塊を拾ふ。

たはやすくガンジーの手に拾はれしひたに輝く塩を思へり

二〇一七年十二月六日、米はエルサレムを首都と認める。

エルサレムに求めし木の実のロザリオの渦巻きてをり抽斗の隅

 

 

社会的なテーマや政治状況を詠んだ歌も多い。それも現在の日本だけでなく、時代と国家を自在に往還している。どの歌にも状況への危機感が現れているのは、いつどの国においても人為的な危機を起こす要素は共通すると作者が認識しているからである。こうした歌は間違いなく本集の特徴でもちろん秀歌も多いが、自分はやはり、

 

 

辞書の言葉夜の妖気に誘はれ宙に浮かぶをいかに掴まむ
起き抜けの白湯に喉を潤せりやうやう去りゆく夢に来し者
開拓の野を覆ひたる麝香草今宵のシチューに勇気をもらふ
電話切り夕べに濯ぐ右の耳聴聞僧となりて半時

 

といった自身の見聞きした景色に感覚を重ねてゆく作り方の歌により惹かれた。表現がより重層的になってより説得力を増すからである。

 

特に押さえておきたいのは、歌集のどの歌を読んでも、描かれている景色や抒情は春日が本当に事物に感応して生じているものだとはっきりわかることだ。歌の措辞は比較的平易だが、ゆえに感じた心の動きをダイレクトに感じることができる。同時に、春日の持つ危機意識もストレートに手渡される。だからこそ、政治や時代状況を詠んだ歌が読者の印象に強く残るのだ。