生沼義朗


池田はるみ/さびしうてならぬ日本がさびしうてならぬ相撲に重なりてゐる

池田はるみ『婚とふろしき』(角川書店・2006年)

※『婚とふろしき』は砂子屋書房の現代短歌文庫115『池田はるみ歌集』に一部収録されている。


 

『婚とふろしき』は池田はるみの第4歌集。掲出歌は、「初場所八日目(二〇〇三年一月二十日)」一連の最終首。池田はるみは、『お相撲さん』(2002年・柊書房)というエッセイ集を出しており、歌人随一の好角家で知られる。

 

 

荒魂(あらたま)が口をひらきぬ「横綱に貴乃花ありけふ引退す」
土俵際でふつとちからを抜く寄りをわれは見たりき陶然として
貴乃花に夢を見てゐた 日本にも重い希望があると思つて
武蔵丸がころがる刹那 顔上げて土俵に何か叫びたるかも
貴乃花に悲劇を見てゐた 完璧を目指して進むこのわかものに
横綱の死に場所がなく体力が点滅してるやうな歳月

 

一連から掲出歌以外のすべての歌を引いた。一連の題材である2003(平成15)年初場所は横綱貴乃花が引退した場所だ。題になった初場所8日目は、結果的に貴乃花現役最後の一番となった日である。

 

掲出歌は、作者である池田が相撲全体に感じざるを得なかったどうしようもない負の感情と、日本という国全体に対して抱えている負の感情が交錯し、それを率直に短歌形式に注ぎ込んでいる。ただし相撲を国家の喩として象徴的に機能させようとしているわけではない。

 

意味的には「さびしうてならぬ日本が/さびしうてならぬ相撲に/重なりてゐる」と繋がるが、声に出して読むとき、一瞬「さびしうてならぬ/日本がさびしうてならぬ/相撲に重なりてゐる」と読みそうになってしまう。もちろんそれでは結句の「重なりてゐる」が解釈できなくなるのであり得ないのだが、このリフレインを含んだ語順と韻律が意味内容と読後感に独特のうねりをもたらし、相撲に対してまた日本に対して声にならない声を切切と発し続けている点はぜひ押さえておきたい。

 

他の歌も相撲への愛が惜しみなくあふれている。端的かつ的確に場面を切り取る技術力の高さは言うまでもない。1首目の「荒魂」は、神道の概念で神の霊魂が持つ二つの側面の荒々しい部分を指した言葉である。池田には下句の声が聞こえたということだ。もちろん、相撲が神事としての性格が不可分であることと無縁ではない。

 

2首目はどの力士を描いた歌かはわからないが、多くの読者が貴乃花を思い描くだろう。四句までが過不足のないスケッチで、結句に添えられた「陶然として」は作者の主観と言えば言えるのだが、ここで作者自身の実感に引きつけたことであくまで一ファンとして取組を見ていることが伝わり、かつ説得力が増している。

 

話は逸れるが、初場所2日目に貴乃花は左肩を負傷して翌日から休場し、5日目から異例の再出場をして2連勝を挙げた。そして7日目から2連敗して9日目に現役引退を表明した(9日目は出場せず不戦敗)。最近になって貴乃花は再出場の理由を「死に花を咲かせるため」と語ったが、5首目の歌を読んでその話を思い出した。もちろん直接関係はないが、どちらにも貴乃花の「完璧を目指」す態度や「悲劇」の一端が垣間見える。

 

6首目の「死に場所がなく」も横綱の孤独な立場をよく言い表しているし、下句の「体力が点滅してるやうな歳月」も実感と客観的な視線が一首に共存する。同時にいつかは引退せざるを得ないアスリートの宿命も語られる。

 

余談になるが、今朝、大相撲現役最年長関取である40歳の安美錦が現役引退を表明した。関取在位117場所は歴代1位タイである。2日目の取組で古傷の右膝を痛めたため休場して再出場を目指していたが怪我が治らず、幕下陥落が決定的となったからだ。ちなみに、先に挙げた貴乃花最後の取組である2003(平成15)年初場所8日目の対戦相手は安美錦だった。これで貴乃花がこの場所で対戦した力士は全員引退したことになる。あれから16年も経ったことに驚くとともに、貴乃花のときに終わったひとつの時代につづく時代が今さらに終わったことを少なくとも自分は実感している。