吉田恭大/砂像建ちならぶ海際から遠く、あなたの街もわたしも眠る

吉田恭大歌集『光と私語』(2019年・いぬのせなか座)

※「吉」の字は土+口です。


 

(ぢつと手をみる)
というオプション。
(たはむれに母を背負)ったりする、
そういうオプション。

 

前回のこの歌は単純に本歌を分解しているのではない。ここでは一首という肉体が解体されている。肉体とはつまり歌を統べている「啄木」という「私」である。だからここに置かれた(ぢつと手をみる)(たはむれに母を背負)は本来ならば二つの本歌の大将がさらし首にされて並べられているようなものだ。けれどもこの歌にはそうした生々しさはないし、大将の首を討ち取った新たな「私」が歌を統べるというような単純な政権交代が行われたわけでもなかった。この歌は極めて無機質に、誰かが歌を統べること自体を放棄するところで成り立っているのだ。

 

だから、ここには「一首」という肉体がない。

 

(ぢつと手をみる)というオプション。
(たはむれに母を背負)ったりする、そういうオプション

 

という二つのセンテンスが四行に分かたれてただ並列に置かれている。
誰に対しても同じレベルで使用可能な無機物として討ち取った大将の首がただ提示されているのである。

 

さて、『光と私語』という歌集は3章に分かれていて、1章では主に、「私」というものを「位置」として配すことで「私」の絶対性から解放された空間が作り出されている。この「位置」のあたりについては「塔」8月号の書評で書いているので、ここでは補足程度に言うと、

 

砂像建ちならぶ海際から遠く、あなたの街もわたしも眠る

 

たとえば、この歌では、「砂像建ちならぶ海際」という「位置」から「遠い」という意味で「あなたの街」と「わたし」もまた「位置」として置かれている。

 

よく見れば、「砂像建ちならぶ海際」という具体的に限定された場所と、「あなたの街」という解像度の低い広範囲の土地と、「わたし」は位相の異なるものであるのだが、「位置」に還元されることで同質のものとしてここに置かれているのだ。そういう手つきが強引に見えないのは「眠る」というような短歌的なリリシズムにきれいに歌を回収しているためでもあるし、何よりも「私」さえを「位置」として並列することで、「短歌的リリシズム」が位置と位置の隙間から自動的に生じているというような倒錯が起きているからだと私は思っている。

 

だからこの歌は、外見的には(ぢつと手をみる)の歌とはだいぶ印象が違うのだけれど、この二首は、実は同じ構造を持っている。どちらの歌も、「私」を含むモチーフ全てを世界における無機質な部品に還元し並列することで、歌の「私」の肉体は消滅し、そこからは自動発生的に抒情が生み出されているのだ。

 

そして歌を統べる、つまり一首として言葉を連結していた「私」が解体され連結部であったところに隙間ができたことによって2章ではその隙間が拡大され、短歌の構造そのものが地殻変動を起こしていく現場になっていると思う。

 

そのあたりのことを次回書ければと思う。