佐藤佐太郎/避雷針するどく立てる街空をあたたかき硝子戸のうちより見をり

佐藤佐太郎『軽風』(1942年・昭和17年)

※『軽風』は『歩道』ののちに刊行されたが、実質的な佐太郎の第一歌集であり、
昭和2~8年、17~24歳までの作品を収録している。

佐太郎の歌というのは、

 

舗道には何も通らぬひとときが折々ありぬ硝子戸のそと 『歩道』

 

の歌に代表されるような、ないもの、不在が切り出されているところにその特徴を指摘されることが多い。そして、佐太郎の特に初期作品においてこの「不在」とは、幽玄とか幻想とはちょうど正反対の一つのリアリズムの行き方なのであり、ないことを詠いながらその景にはくっきりとした輪郭が与えられているところが非常に面白い。

 

あるいは、

 

護国寺の杉の林の窪たみに落葉焚くらむ匂ひこそすれ

 

こうした「らむ」という推量において、「護国寺の杉の林の窪たみに落葉焚く」とまで限定していうところは相当変わっている。「こそすれ」によってさらに断定されるのだ。推量でありながらここには何一つ他の可能性は残されていないし、残さないことに腐心しているように思われる。

 

思い出を詠うときにしても、

 

故里(ふるさと)にわれ居りしころ味噌汁によく煮て食ひし春さきの若布(わかめ)

 

というふうに、「春さきの若布」だけが取り出されてくる。

 

これはあるいは、「薄明のわが意識にてきこえくる青杉(あをすぎ)を焚(た)く音とおもひき」でも同じである。見ているものにおいては「ない」ところに言及し、一方で見ていないものについてそこにあるものを限定してゆくというのはある意味転倒しているようでもあるが、けれども両者において佐太郎の興味関心は同じところに置かれているのだ。佐太郎は常に無意識的なものを表面化してゆく。舗道に何も通らない時間も通る時間も見るともなくぼんやりと眺めている。そういう漠然と流れてゆく視覚に意識が挿入されるときはじめて「何も通らぬひとときが折々ありぬ」という景が顕在化させられる。あるいは、歩きながら、流れて来る落葉焚きの匂いを感じ取るとき、護国寺の杉の林の窪みで焚いているんだろうなあということは自然察せられることであったとして、その察したものを書き起こしてゆくとき顕在化される景がある。

 

佐太郎はさらに、自分の位置というものをもくっきりと出す。

 

避雷針するどく立てる街空をあたたかき硝子戸のうちより見をり

 

これは昭和5年、佐太郎二十歳のときの歌である。避雷針の景と、自分とは硝子戸を隔ててそれぞれ配置されている。こういう空間把握と、意識の顕在化とはいずれも、物事を相対化するところで選び取られたモチーフの限定なのである。その結果としてこの歌では佐太郎自身も一つの景として歌の中に配置されることになる。

 

暁の外の雪見んと人をして窓のガラスの露拭はしむ
冬こもる病の床のガラス戸の曇りぬぐへば足袋干せる見ゆ 

 

それは、こうした子規の歌との違いを見るときよりわかりやすいと思う。子規のこれらの歌では「窓のガラスの露拭はしむ」や「ガラス戸の曇りぬぐへば」によって、見ようとすることの積極性が歌のモチーフになる。見ようとして「見る子規」がいてはじめて「足袋干せる見ゆ」となるのであり、ここではそのような主体性が書き込まれることで、景と自己との関係が極めてシンプルにもなる。子規の歌というのはだからこそ、単純にして客観的に開かれた歌となっている。

 

子規以降、こうした「見る人」と「景」とは次第に混在一体化していく、あるいは景のほうが自らに働きかけてくるような歌い方が出てくる。

 

沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ

 

これは、戦後の歌なので、佐太郎の『軽風』『歩道』よりだいぶあとの歌になるんだけども、こういう、景のほうから「見よとぞ」みたいなかたちで主観がズームアップされるのが茂吉の歌で、本人が「実相観入」と言っている通り、主観によって対象に肉薄していく。そのようにしてここでは絶対性が獲得されているのである。

 

佐太郎の歌というのは、こうした子規の主体性による客観性とも茂吉のような主観による絶対性とも違った、自己の意識の相対化によって限定された景を切り出しているのだ。そこに佐太郎の現代性がある。

 

友達の部屋から見える友達の東京に伸びきる電波塔 吉田恭大『光と私語』

 

吉田恭大の『光と私語』にある内実ははもちろん佐太郎のものとはぜんぜん違うんだけれども、たとえばこうした歌を見るとき、私というものの配置の仕方、景の切り取り方には相通じるところがあって面白いなあと思う。それは佐太郎の時代と現在との時代的な相似としても見えてくるように思えるのである。