大森益雄/天の投網 弔ひの家越ゆるとき椋鳥千羽傾くゆふべ

大森益雄『水鳥家族』(短歌研究社・2001年)


 

大森益雄は1948(昭和23)年茨城県生まれ。1974(昭和49)年「短歌人」に入会。2002(平成14)年から2016(平成28)年8月に67歳で逝去するまで編集委員を務めた。また、同人誌「餐」にも参加していた。歌集に『水のいのち』、『歌日和』など3冊がある。

 

 

右の眼を病みて苦しむ妻なれば悲しみは眼に溜りゆくらむ
ブルックナーを聴く休日のわが耳に指揮者の息もとどく折ふし
ただいまあ雪女ですと雪まみれの可奈子が昼の玄関に立つ
隣町のわれの右手を握り締め町長選にはよろしくと言ふ
息止めてティラミスを食む四十二歳(しじふに)の男を映す銀のスプーン
亜流のまま俺は死ぬのか黄のカンナ分校の坂に一夜哭くべし

 

 

掲出歌は第2歌集『水鳥家族』所収の歌で、鑑賞の前に同じ『水鳥家族』から何首か引いた。大森の歌は日常の光景を丹念に詠む作風で、歌集題にも象徴される通り家族を詠んだ歌が多く見られるのが特徴である。日常を詠む目線は基本的に低めではあるが、日常べったりではなく歌によって自在に動く。詩性の濃度も歌によって自在に動く。しかしどの歌も大森の静かな眼差しと事物や人物に対する襟度が保たれているので、歌によってブレを感じることはない。これはなかなか難しいことで、事物の見方や見解が固定されやすくなる人も多いし、もっと下手な場合は歌によって視点や襟度がバラバラで行き当たりばったりの印象にさえなり得る。歌をそれなりの年数嗜んでいると、〈歌は人なり〉とか〈文は人なり〉とかみたいなことを師や先輩から言われた人も多いのではないか。自分もそうだった。精神論に聞こえるかもしれないが根拠のある話で、短歌作品や短い文章にでもその人の事物に対する態度や余裕はもちろん、思想や哲学まで出てしまうのである。だから表現する行為は怖いのだ。その怖さを大森は知っているに違いないし、怖さを真正面から引き受けている様が歌から率直に感じる。

 

掲出歌の「天の投網」は「椋鳥千羽」の喩と読むのが妥当だろうが、作者の心象と詠んでももちろん成立する。初句切れでいきなり出される「天の投網」が読者にあざやかな印象を投げかけている。「弔ひの家」は自分の家と読む方が悲傷がより深く印象的になるが、他者の家と読んでも構わない。いずれにしても家族が亡くなったことを知っているのだから、一定以上の関係であることは間違いない。「椋鳥千羽傾くゆふべ」も家族を失った人間の不安定さを象徴的に示している。「千羽」は概数だしもちろん文学的誇張が含まれるわけだが、ベタな譬えだがヒッチコックの『鳥』につながる不気味さを想起させる。

 

目線も詩性の濃度も高い部類の歌で、大森の歌の振幅を見る。こう言っては何だが中年以上の男性が詩性の高い歌ばかり作るとロマンに溺れているとか浮世離れしていると見なされ、少なくとも短歌においては得はしないのだが、大森は歌の振幅もあるが掲出歌の意味内容がそうした甘さを回避させている。これは計算してのものというよりは、人生に対する諦念や苦みに基づくものと思う。一方で家族に対する愛が、歌を負のベクトルのスパイラルに陥るのを救っている部分を否定しない。こうしたところに人の営みの救いをそれこそ感じてしまうのは、自分も曲がりなりにも家庭を持ち、中年以降の年齢になったからだろうか。