中野菊夫/妻が植ゑし大切な葱をぬきてきぬこの幼子らかくて育ちゆけ

中野菊夫『幼子』(輿論社・1949年)


 

中野菊夫は1911(明治44)年東京都生まれ。多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)図案科卒業。母校である旧制国士舘中学校の美術教師を勤めた後、デザイナーとして活躍した。

 

歌人としては旧制中学在学中に石川啄木の歌集を読んだことがきっかけで作歌を始め、1932(昭和7)年に「短歌街」を創刊、1934(昭和9)年には「七葉樹」を創刊して1943(昭和18)年まで続けた。1946(昭和21)年に「人民短歌」(現・「新日本歌人」)の創刊に参加し、渡辺順三らとともに編集に携わり、1951(昭和26)年、「樹木」を創刊し主宰となった。1985(昭和60)年に『中野菊夫全歌集』で第9回現代短歌大賞を受賞。2001(平成13)年10月10日に89歳で亡くなっている。

 

歌集は『丹青』など7冊。『幼子』に収められている作品は1946(昭和21)年末から翌年年半ばまでのもので、刊行順としては2冊目の歌集だが、作品の制作年代から中野自身は第4歌集と位置づけている。

 

掲出歌は『幼子』の巻頭2首目の歌。この歌に限らず中野の歌はシンプルの極みのような文体で、意味内容の解釈に難渋するような歌はまず見られない。時期的に食糧難なことは容易に想像でき、葱を庭で育てているのもその一環だろう。「大切な」は、意味内容からすればなくても構わないことになるが、ここは中野がどうしても言っておきたいことだからこそ「大切な」を意識して入れたことは疑いない。さらに上句の「葱」は下句の「幼子」ひいては「かくて育ちゆけ」の単純な喩ではないが、間違いなく呼応している。ゆえに「大切な」が「幼子」にもかかってくる。「この幼子ら」と複数形になっているのは、掲出歌の前の歌が

 

 

友の子とわが子と分けて一本のミルク飲むさまを妻と見ほるる

 

 

なので、自分の子供が複数いるというより、子供たち全体に呼び掛けていると読む。詠まれた時期を考えると、敗戦後の混乱を突き抜けて再生をめざす日本社会と、それを担う象徴でもある子供たちへの希求を率直に受け取る。心が動いた事柄を平明平易に韻律に乗せているが、リアリズムに徹している。そのリアリズムが題材や時代背景と相俟ってみずみずしい読後感を醸し出す。

 

先に記した歌歴から見てわかるように、中野はプロレタリア短歌の流れを汲む歌人で、

 

 

バチルスのごとくもはびこりし輩(やから)またしても言ふかその独断をうて
異民族犠牲の下に築きたる文化ありきやいまにして思ふ
いくつかの力となりて相撃ちしその力一つに集約の日はいつ

 

 

という歌も見られる。どのうたも権力やその行使の一形態でもある戦争を激しく憎み、また疑っている作者の姿が浮かんでくる。作歌を「生活する態度とも言えるし、作品は態度の芸術とも言える」と位置づけていた中野らしく、その意味では子供を詠んだ歌だけでなく、社会詠も花鳥諷詠も身辺雑詠も旅行詠も同じ位相で作られている。これはできそうでできないことで、確固たる作歌理念と自我が確立されていたからだろう。

 

掲出歌に戻ると、掲出歌のみならず子供を詠んだ歌に愛情はもちろんヒューマニズムを受け取らない読者はいないだろう。今でも父の立場から子供を詠んだ歌は見られる。父の、あるいは子の置かれた環境や時代状況はたしかに異なるが、愛情とヒューマニズムが流れている点では変わらない。ゆえに、70年以上前に作られた歌であったとしても今の歌と同じように読者の心を搏つのである。