花山 周子


岡井隆/記憶違ひはさう想ひたい欲念の素顔でもある 秋の風吹く

岡井隆『暮れてゆくバッハ』(2015・書肆侃侃房)


 

岡井隆の歌集を読んでいると宇宙空間に空いた「私」というブラックホールに向き合っているような気がしてくる。岡井の「私」は感情であり、自意識であり、想念であり、すべてのものがそれらの暗喩として機能してゆくような、気がしてくる。

 

光太郎にまたがつて進む智恵子より立ちのぼる妖気が見えたのだつた

 

たとえば『暮れてゆくバッハ』にこういう歌があり、「光太郎にまたがつて進む」「妖気が見えた」という敢えて単純に過ぎるような見立てに、却ってアイロニカルな滑稽味が漂うのだが、ともかく、「またがつて進む~立ちのぼる~見えたのだつた」という動詞が生み出す言葉の流れが、こうした見立てや暗喩を映像的にもリアルなものにしている。

 

こういうふうに描写のうまさによって暗喩やイメージにリアリティーを持たせるやり方は、現代では決して珍しい手法ではないけれど、そもそもが岡井隆が切り開いた方法なのである。

 

岡井はいわばアララギの写実力=レトリックと前衛における暗喩、虚構をドッキングさせることで、近代の「私」の領域を広げることに成功したのだ。

 

では、この歌での岡井的「私」はどこにあるかというと、「見えたのだつた」になる。もしもただ、「見えた/見えし」だけであれば、現場性が出てくるだけだが、「見えたのだつた」というふうに回想のようにして言われるとき、そこに想念が生じる。想念=ブラックホールのなかに全てが吸収されていく。「光太郎」も「智恵子」も私は特段好きではないのだが、それにしても大変個性的なこの二人の芸術家の上に、岡井自身がまたがってしまうのであり、この岡井の想念のなかでは岡井によって二人の姿が与えられることになるのである。

 

「私」の領域が広がるというのは、つまり、感情や、自意識、想念といったかたちのない「私」が描写、タッチによって歌そのものに息づく、そのような拡大のされ方なのであり、つまりは歌に詠われていることの全てが「私」となる。

 

短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の―そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(それが即作者である場合もそうでない場合もあることは、前に注記しましたが)を予想することなくしては、この定型短詩は表現として自立できないのです。

『現代短歌入門』(1969年・大和選書)

 

この有名な「私性」の提唱は、以降、一般的/基本的な定義として現代短歌に敷衍することになったわけだけれど、岡井隆が提唱したことの必然があったのである。ここには岡井の作歌法こそが組み込まれているのであり、実のところ、この提唱によって岡井自身の歌を量産するシステムが出来上がったのだ。そしてまた、ここで定義された「私性」からはどのような短歌も出ることができなくなっているところに岡井の「私性」の実態がある。それまでの「私性」をめぐる様々な矛盾は解消され、短歌の「私」は無敵となり、そして岡井の歌をブラックホール化したのである。

 

同時に、「作者の体験した事実を忠実に嘘いつわりなく摸写することによって成り立つ「感情の表白」であるところにその特質がある(『現代短歌入門』)」というような一義的な「私」というものは、下位に置かれ、レトリックにおいては、直喩は暗喩の下位に置かれることにもなった。「私」の拡大が現代短歌に齎したものは多義的なレトリックの優位性でもあったのである。

 

ところで、岡井隆はというと、私というブラックホールをさらに進化させていくことになる。

 

記憶違ひはさう想ひたい欲念の素顔でもある 秋の風吹く

 

記憶違ひはさう想ひたい欲念の素顔」というのは岡井らしい物言いで、つまりこう言われてしまえば、全ての人の「記憶違ひ」は「さう想ひたい欲念」となり、岡井の大きな掌のなかに掌握されてしまうんだけれども、ここで取り出されてきた「素顔」は、なぜかどこにも所属しない「」のように見える。それは「秋の風吹く」によってそう感じさせられるのではないか。「秋の風吹く」は、クレジットのない短歌の常套句であり、さらに一字空けで「秋の」とはじめる、そういう素直な常套句が歌の中から書き起こされることになる。それはまるで「岡井隆」という無敵の私性をきれいに一掃してしまうのだ。

 

雨が来るかもしれないと傘もつて出た日の午後は 詩話の快晴

 

この歌でも「詩話の快晴」という言い方はいかにもな岡井の造語であるけれども、一字空けも相まって、ここでも何かが一掃されている。

 

固有名詞の出て来ない日はせめてもつとでつかいものの名よ出よと思ふ

わたくしはしばしば母を批判した肉体を持つのが悲しくて

 

このシンプルな「名よ出よと思ふ」、「肉体を持つのが悲しくて」という表出のされかた。

レトリックを駆使することで喩にリアリティーという負荷を背負わせてきた岡井の歌はどこかからその重みを、つまりは「私」を手放しつつあるようにも見える。手放すというよりも、「私」そのものが無化されていくような、ブラックホールであったところのものがオールオーバーな平面性に転換されているように感じるのである。