ふる花をひろいながらに来るこども遠く見ゆ遠けれどよく見ゆ

齋藤芳生 『花の渦』現代短歌社:2019年

今日は東日本大震災から9年目。その現場から静かにそして生き生きと歌をつむいでいる歌集を読み返した。

花びらのふりそそぐ道、長い桜並木だろうか。散りしく花を子どもが拾い上げている。拾いながら子どもは近づいてくるらしい。その姿はちいさくまだ遠くに見えている。だけど、遠いけどその子の姿はくっきりと迷いなく見えている。ここに描かれているのは夢の中の風景のような気もするし、回想のシーンのような気もする。さらに読んでいると、花びらを拾う子どもたちはまるで彼岸に立っているかのように遠くてはかない。一首全体にしずかな悲しみが鎮魂のように流れている。

降る花のなかを歩むこどもには祝福されたイメージがあるが、また反面、枝から離れ、地に落ちた花びらにはどこか死の影をはらんでいる。無垢な子どもの姿とつかずはなれずの死の影と。そういった両義性として子どもは主体にむかって近づいてくる。下句の「見ゆ」のリフレインが主体の位置をくっきりと刻んでいて存在感がある。

この歌の下句はとくに印象にのこる。子どもの残像をひびかせながら、さらに意味を変奏する。「遠けれどよく見ゆ」、と言葉を反転させることで、幻のような子どもの姿からベールが剥がれ落ち、現実にいのちをもった存在としていきいきと立ち現れてくる。歌の背後に壊れやすい子どもたちへの共感があるのだろう。この歌の構図はどこか俯瞰的であり、天上から見下ろしているようにも思われる。それは支配的ではなく、どこまでも受容する澄んだ視線だ。ひらかな表記を多用し、意味をそいで言葉をシンプルに使うことで、清純な透明感をかもしている。しかも、韻律にながれないリズムの屈曲がある。「遠く見ゆ遠けれどよく見ゆ」と句跨りを使いながら念押しをすることで、主体の意識がつよく差し込まれてきた感じがする。

傷つきやすい子どもの未来が幸福なものであるようにという祈り、そして、自らがそうしなければならないという強い意志がここにある。それはしなやかな想念として静かな言葉で綴られている。何度読んでも、その美しさに引き込まれてしまう。