岩尾淳子


破壊もまた天使であるとグレゴリオ聖歌が冬の神戸を駆ける

           尾崎まゆみ『酸っぱい月』砂子屋書房・1998年

今年はきりっと冷えないうちに冬が終わってしまい現実感がない。まるで季節がまるごと消えてしまったかのようだ。そうこうしているうちに新型コロナウイルスの感染がひろがり、目に見えないものの脅威を感じる。不穏な気分が日々を浸してゆくようだ。混沌としてどこが安全な場所なのかわからない。もしかしてそんな場所は初めからなかったのかもしれない。

思えばこんな気持ちは今に始まったことでもない。1995年の阪神大震災。あの日、無事な街が一瞬で消え、無残に破壊された神戸の街を目の当たりにしてから長くこういう気分を漂っていた気がする。目の前の風景はどこからやってきたのか、見えるはずのない風景が見えているという感覚。しかしそれは、見えなかっただけで、実は日常のすぐそばに深い裂け目として広がっていたのではないか。そんな気もした。

それにしても様々な災いには何の理由もない。私たちのまえに現れるとき、それはどんなに苛酷であろうといつも偶然の出来事にすぎない。理由がないことは耐えがたい。また問わないでいることに耐えられない。沈黙は絶望だった。

文字通り言葉を失ってしまっていたし、どんな言葉も無効だった。それでも言葉に飢えてもいた。そんな状況のなかで、この歌には都市という共同体が体験し、かかえこんだ喪失感をなんとか言語化している。言語化することで傷を深めるかもしれない。言葉にするとは誰かを傷つけずにはいられない。しかし同時に言葉は慰藉でもある。すべては偶然であり、同時に必然であることを思いしらされるとき、どうしてかほっとする。われわれには手の届かない場所が確実にある。否応なく超越的な場所があることを知らなければならない。

さまざまな場面で世界の多義性ということを思う。旧約聖書では、災いは神の怒りでもあり愛でもあり、つねに交錯しながら繰り返し記述されている。天使は神の御使いであるから、救済も破壊も天使のなせるわざ。それはときに滅びをもたらす神の手でもある。破壊された街に聖歌がひびく。滅びは再生のはじまり、と声がする。ほんとうにそうか。