何にしろ今のままではいられない遡上する鮭の群れに加わる

平山繁美  『手のひらの海』本阿弥書店 2019年

 冒頭からいきなり差し迫った様子だ。無理もない、作者はお産が近いらしい。だから母体が今のままでいられないのは当然のことだけど、それを即物的に言い放つことで、出産をするときの身に差し迫った奇妙な感覚をさらりと言い得ている。さらに、産卵するために遡上する鮭に自分を見立てるという衒いのなさが、まことに率直で清涼感がある。

産むことを「からだ二つになる」というけど、今にも体が二つに分裂してゆくような異和感にリアリティがある。現代短歌の場で出産という体験は、それぞれの作者の生命観によって多義的なイメージを与えられつつ詠まれてきた。感じ方はそれぞれの個人で異なるのは当然だけど、あまりにも母性礼賛のほうに陶酔してゆく思考は苦手だ。どうしても独善的で幻想的な女性像をみずから作り上げてしまう。それでは、かえって苦しいだろう。特権のように恣意的に深くせずに、たんに「からだ二つになる」としたほうが身軽でいい。

この歌では、産むことから、過剰な幻想や感傷を切り離している。まるで清流を力強くさかのぼる素裸の鮭のようにすこやかな体が見えてくる。飾らない口調によって、自愛におちいらない聡明な知性とふっくらしたユーモアがあり、切羽詰まっているわりには、気持ちに余裕があって何度読んでも楽しくなってしまう。

さて、この歌集を最後まで読むと掲出した歌が、特別な意味をもってもういちど読みを揺さぶられる気がする。よく知られているように鮭は川を遡上して出産したあと、寿命が尽きて数日の間に死ぬという、苛酷な宿命を負って命を繋ぐ鮭の群れ。その鮭に自らを見立てた作者もまた、その後の人生において苛酷な体験をすることになる。困難にあたるたびに逃げずに現実と組みあい、みごとに蘇生してゆく。そうした体験から詠まれる歌には、精神のダイナミズムと柔軟な発想がゆきわたっているように思う。歌を通して生きることの輝きにふれる思いがして心に残った。

こっとんのワンピースのなか風満ちて誰かがわたしに会いに来ている