かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は

大西民子『まぼろしの椅子』(引用は『現代短歌全集 第十三集』筑摩書房、1980年による)

 「あくがれて待つ」人がいるから傍らに椅子を置いていたのが、今はそんな気持ちで待つこともなくなって椅子も置かなくなってしまった、というのが一首の大要だろうか。

しかしあくまでわたしはそこに椅子を置く。たとえそれが幻だとしても。一首全体としてもそこに力点が置かれている。幻だとしても、そこに椅子は置かれているのだ。今はもう「あくがれて待つ夜」もなくなってしまったのかも知れないが、それでも「あくがれて待」っていたかつての記憶が、いや記憶というよりは心の底にこびりついた感情のようなものが残っているから、わたしは幻とはいえ椅子を置かずにはおれないのだ。

ところで「あくがれて待つ」対象が省略されているので、「幻の椅子」を傍らに置くことで本物の椅子が届くのを待っているようにも、読めなくはないのではないかとふと思う。椅子が配送されてきて、それを今か今かと待つなんていうのは、家具もネットショッピングで買う時代になったからついそう読んでしまうだけだろうか。とはいえ「家具」に固執するところになにか歌の勘所があるという点で、この読み方も誤読ではあっても歌が発する何かの磁場を感じ取っているのではあるまいか。家具を幻として仮構してしまうほどに「あくがれて待つ」人という、その想いの強さは、今の自分にはちょっとわからない次元だ。