舌という湿原を越えてやってくるやさしくなりきれない相槌よ

 

    榊原 紘  『悪友』  書肆侃侃房  2020年

 

人と話しながら軽く相槌をうつ、そういうのは無意識でやっていること。だいたいは話の内容にあまり立ち入らないように、適当なタイミングで「そうそう」なんて相槌をいっている。ほんとうにその通りだなあ、とか思う時にはつい言葉が出てしまう。相槌ってそう考えれば、ずいぶん曖昧なもの。とりたてていうほどの賛意があっての行為ではない。それはもともと「やさしくなりきれない」心と「やさしくなりきる」心の中間みたいなところに相槌は打たれ、そして忘れられてゆく。そんなささやかな「相槌」に立ち止まり、ひろがってゆくしずかな想念がある。

 

感情というものがどう捕まえようと不定形なものであること。ここではやさしくなりきれないことに悔いがあるのではなくて、生きていること自体が相槌みたいなもので、いつもどこか核心からずれている、そんな、ざわっとした内面の感じを確かめているような気もする。

そう思うと「舌という湿原を越えてやってくる」というフレーズが生々しくも、美しいものに思えてくる。〈舌という湿原〉という卓抜な比喩にも驚くが、さらに展開してゆく心情の振幅のこまやかさに気持ちがゆく。言葉にふくまれる湿り気こそがこの歌の主題であってもいい。人との関係のなかでゆれうごく思惟の時間が火花のような言葉をさそいだして印象的な一首。

 

なくてもいいけれど買い足すことにするサイズ違いの洗濯ばさみ

 

つい先日、筆者も洗濯ばさみをつい買ってしまった。なくてもいいけど、すこし大きめのを。そこでこの歌をもういちど読むと、「なくてもいいけど」の脱力と浮遊感、つづく「買い足すことにする」という三句目の強さが、アンバランスですごくリアルに響いてくる。日常ってこういうふうに不分明。それでいて洗濯ばさみひとつ買うのにも、こんなに小さいけどけなげな決意を繰り返しながら積み上げているのかなと改めて思う。生活していることの内実をさらっと掬い取っていていいな。

 

存在のはかなさや温もりをシンプルにスケッチしているようで、静かな思考の世界がちらちらと背景に見えている。そんな美しい歌がたくさんあって楽しい散歩道のような歌集。

 

立ながら靴を履く時やや泳ぐその手のいっときの岸になる