世間よのなかは霰よなう 笹の葉の上への さらさらさつと降るよなう

『閑吟集』

 

訳 この世は霰、笹の葉の上に降りかかる霰みたいなものよ。さらさらさっと降っては過ぎ去ってしまうよ。

 

NHKの大河ドラマ『麒麟が来る』がやっと再開になるので楽しみにしている。本筋ももちろん期待するけど、脇役のお駒さんの引き出す世界に活気があって気持ちが引かれる。時は中世の末期。戦乱の世にありながら、悲壮な武士たちと絡みながら、庶民の世界はどこか明るい。市場の喧騒のなかに無名の人たちが口ずさむ軽い小唄が聞こえるたような気がしたのはそら耳か。

 

『閑吟集』は1518年の成立。321首の歌謡を集めている。

引いた歌は一見、無常観を詠んでいるようで、仏教的な諦念は感じられない。この世を露の宿りとしたのは、中世の初期のころか、それから時代は下って「世間は霰」、というときこの世の儚さにはちがいはないけど、「一期は夢よ ただ狂へ」というように、どちらかというと楽しんで引き受けているような明るい開き直り方が見えてくる。

 

さらに歌を読むと、定型をはみ出して、言葉は思いのままに不定形に流れ出し、ほとんど話し言葉の親しさに近づいている。二句目からつづく「さ」音の連続には乾いた感覚が行きとどいて心地よい。「さらさらさっと」のフレーズには、はっとするような新鮮なスピード感が生の実感として捉えられている。こういう歌はどのような場面で詠われたのだろうか。飲み会の席か、労働の合間か、あるいはちょっとした恋人どうしの会話のすきまに掛け合いのように詠われたのだろうか。本来、小唄とはそういうものであったらしいのだけど。

 

そのような想像をしていると、中世世界がいきいきと動き出す。ちょうど狂言の太郎冠者と次郎冠者の対話のようにユーモラスな中に洒脱な言葉遊びがまじって、その内容は結構クオリティが高い。小唄といっても、自然に洗練された美意識と、強い現世への肯定感とが長い歳月の中で混然と混ざり合っている。一般社会の教養度は今より高い気がしてくるがどうだろうか。

 

花籠に月を淹れて

漏らさじ、これを

曇らさじと

持つが大事な