少女子をとめごがあやとりをすもあたらしき國つくるがに息をころすも

 

       小池純代  『苔桃の酒』 砂子屋書房 1994年

 

小学校のころ、雨の日はよく教室であやとりをした。二人で糸を取り合って、ゆりかごから、川、田んぼ、船や、流れ星、と形が変わってゆく。まるで小さな魔使いにでもなったよう。私は緊張しやすいので、糸をとるときはタイミングをみながらほんとうに息をころしていた気がする。だから友達があざやかに取り合うのを呆れながら横で見ている方が気楽だったかな。いろいろな毛糸を持ち寄るのも楽しかったけど、やはり、一本の糸を操る指さきから、さまざまなイメージが次々に現れてはまたたくまに消えてゆく美しさに魅せられていたのだろう。

 

この歌は、あやとり遊びの楽しさを存分に表現していて、ながく忘れられない歌だった。二句切れで五七調の韻律に歯切れのいい張りがあって、遊びの場の高揚感が伝わってくる。三句目からは「あたらしき國つくるがに」と、ちょっと驚くような比喩がかさねてあり、とてもおおきな時空が開かれたようで新鮮な気配が流れだす。たしかに、あやとり遊びは次々とあらわれるイメージが大きかったり、小さかったり、変幻自在。ほんとうに神さまがひっそりと〈あたらしい國〉を創出しているかのような陶酔感があるのかもしれない。

 

なんども読んでいるうちに、ささやかな遊びの世界から、さらに遠くへ想念が放たれて、神話の世界の少女たちを見ているかのよう。川も船もゆりかごも現実には実在はしない。それは少女たちのこころのなかに描かれた非在の国、つまりファンタジーの世界にすぎない。それでもその架空の世界の中で、自在になにかの運命をあやつるかのような快感があやとりにはある。それは、言葉を自在に操ることにも通じるものがあるかもしれない。そんな楽しさを知っている言葉の達人が〈あたらしき國〉を軽々とつくっている気がする。とくに深い意味はない、遊びにさそう言葉はどうしてこんなに輝くのだろうか。

 

春菊の葉のぎさぎざは消えたげなものいひたげな深緑かも