おのづからわれを離れて霧となる息嘯おきその息のごとく詠みたし

 

          柏崎驍二 『北窓集』 短歌研究社 2015年

 

『北窓集』という歌集が好きでいつもテーブルの上に置いている。庭に来る鵯や、身の回りの草花、あるいは雪国の人の暮らしぶりが、ふっと灯りをともすように暖かく、こまやかに詠まれていて、どの歌にも心が震えてしまう。大仰なものいいはせず、慎ましやかな気負いのない言葉が、はじらいを含むように差し出される。そのひとつひとつは、とても繊細に磨きこまれていて、歌はこのように優しく詠むものだよと諭してくれる気がする。そんな潤いのある歌の生まれる場所を、そっと明かしてくれたような一首。

「おのずからわれを離れて」ゆくという、自意識の殻から自由な、それでいて色の匂い立つ水彩画のような歌。霧となるとあるから弱いかと思うとそうではない。まさにこの歌に詠まれている通り、自らの息をたしかに吹き込んでいのちを与えたような抑制された熱量もある。この作者が歩いてきた豊かな歳月を想わずにはいられない。

 

ところで、この歌を単なるメタ短歌として読ませないのは「息嘯(おきそ)」という古風な言葉がはめ込まれているせいだろう。この不思議な響きの言葉がふいに位相を変えた世界に読者を誘い込んでしまう。この言葉はどこから来たのか、調べてみると見つかった。

 

大野山霧たち渡るわが嘆く息嘯おきその風に霧立ちわたる   万葉集 巻五 796

 

大伴旅人は大宰府に赴任中に妻を亡くしている。その旅人を悼んで、山上憶良が献上した日本挽歌、その反歌5首のなかの一首。悲傷の旅人を想いつつ詠み上げられた憶良の長歌は胸に迫るものがある。反歌もまた、どれも心がこもっていて読まされる。とくにこの歌は「霧立わたる」というフレーズが二回繰り返されることで、せり上がってくる悲しみを旅人にかわって詠みあげた絶唱のようにも思える。

「息嘯」は息吹のことで、この時代には息が霧や雲になると信じられていたらしい。悲しみが息吹になり、それが霧になって埋葬地である大野山を押し包んでいる。心の内と外の境界がかききえて、悲しみが自然そのものと一体になり、ともに慟哭しているような鎮魂の歌。ここでは「息嘯の風」とある。巻頭にあげた柏崎の歌は、古代のこの息吹にかようような深々とした響きがあるように思う。

歌に奥行きがあるとよく言われるが、奥行きの向こうから思いが噴き出してくるような力を与えているのが古代の言葉の力かもしれない。