前川佐美雄『春の日』
今日の歌は歌集『春の日』から。
『春の日』は成立がややこしくて、刊行順で言えば7冊目なんだけど、
作品史的に言うと一番最初、「これこそ正しく第一歌集に相当するものなり」と自分で書いている。
最初に刊行した『植物祭』より前の作品を集めたものになっています。
『植物祭』は自分のスタイルを確立した第一歌集にして代表作。それより前の作品だしということで、なんとなく読んでなかったんですけど、読んでみるといいのいっぱいあるなと思いました。
なんだろう、作品のよさって方法論とか文体とかいろいろあるけど、そういうものが決定的なわけでもないというか。批評のトピックになりづらいセンスとか才気みたいなものってあるな、とみもふたもなく感じたのでした。
歌集の舞台は故郷、奈良県の「忍海の里」。お寺とか田んぼとか自然が多く出てきます。
今日の歌、まず、水を飲みに行くので人が中座するというのがわたしにはない生活習慣で目にとまりました。トイレに行くでも変わらないかもしれないけど、この歌の空気はこの水を飲みに行くというのが大事な感じがします。
ちょっと水飲んで来るから、と言って行ってしまった。
それまでかなり話し込んでいたことがわかりますが、待っていてしばらくするとつくづく静かだなと思った。
「静かになり」はやや散文調、さらに6音で一字余り。ここでぐいっと気分が切り替わっていることがよくわかって上手いとこだと思います。
で、「椿の蕾」をちぎり取る。乱暴な気がしてどきっとする。
「椿の蕾 ちぎる」で検索すると、ほぼ出て来ない(実は1件だけ出た)。
同時に何か、ちょっとした気分で花の蕾をむしり取るというのは、花がふんだんにあるようでもあって「蕩尽」みたいな雰囲気も感じる。「かな」の響きが華やかなんですよね。
他の歌のトーンからかもしれませんが、かなり無造作にちぎってる感じがして、あまり「イキり」に見えないところが素敵な気がします。若書きという前提で見過ぎるとなんなんですけど、でも若い感じってやっぱりあるかなと思いました。
他にも引いてみたい歌がいろいろ。少しだけ引きます。
木犀の花粉たまれる板縁に小僧にもあらぬ小僧あそべる
お寺の縁側で「小僧」っていうほどでもない小僧が遊んでいる。この下句とてもキャッチーで、観察が細かいわりに天衣無縫っぽさがある気がします。
いろいろの草葉草の実とりてかへり壺の図案を考へてをり
壺の図柄のデザイン案のため、山に行って使えそうな草の葉とか草の実をいろいろ取ってきた。
おおづかみな言い方の向こう側にとても生き生きした感じがあって、僕はこの歌も好きです。
前川佐美雄は後年、あとがきとして「今は作品そのものの是非を超えてひたすら懐旧の情切なるものあるを覚ゆ」、要するに「このころの歌を見ると懐かしすぎて死ぬ」みたいなことを書いていますが、歌を読んでいるとちょっとわかるし、きっとそうだろうなとつくづく思いました。