土屋文明『自流泉』
今日は1890年(明治23年)生まれの土屋文明の歌。
明治の生まれですが、これは昭和22年の歌なので、年齢的には50代になるみたいです。土屋文明はそれまで東京に住んでいましたが、群馬県の川戸というところに疎開し、そこで終戦を迎えてからも五年以上住み続けます。そのころの歌がまとまっているのが、『山下水』と『自流泉』。このころの土屋文明の歌はいいと思います。
とりあえず今日の歌に。
見てのとおり狸が死んでいるという歌ですね。人間がそのまわりを取り囲んでなのか、横たわる狸を見ている。
振り仮名はないのですが、「人間等」はたぶん「にんげんら」、「足々」は「あしあし」、「横はる」は「よこたわる」でいいのではと思います。
寒々としめりもつ土間に筵しく取りにじりたる狸横へて
動かざる狸となれば人間を手伝ひて殺りし犬もかへり見ず
前後にこうした歌があるので、狸はどこかで死んでいたのではなく犬を使って殺したもののようです。殺してとって帰ってきて、土間に筵をしいてその上に置いてみている。これからどうするのか。
たぬきの四本の脚がいかにも命を失ったものとして乱れたまま、ばたりと横たわっている。それに対して人間は生きて、「立」っている。
この対比はシンプルなものですが、印象的だったのは、「集まりて」のところで、人間のほうは複数なんですよね。複数の人間が立って一匹の死んだたぬきを見ている。
人間-生、たぬき-死なんだけど、その関係は1on1ではない。ここのところに冷たい感触があります。「人間等」という表現も、そこを強調するものかと思います。
「集まりて」だから、直接関係ない人もなんとなく見に来ているのかもしれません。人間たちはなんかうろうろと集まって、死んだたぬきを見ている。それを表わす語としてとても簡明に「生きて居り」と三句ですぱっと切れる。
冷厳なまなざし、と言ってしまうと簡単ですが、この死んで横たわっているたぬきのまわりにうろうろっと集まって立っていることが人間の生なのだというのは、鋭い差し込みと深い感触があるように思います。