久我 田鶴子


生活のとある日の暮れハクモクレンのをはりの花がことりと散りぬ

小池 光 『梨の花』 現代短歌社 2019年

 

特別なことがあるわけでもない、ごく普通の日々の中の「とある日」。日が暮れて、ハクモクレンの終わりの花がことりと散りました。一首は、春の日暮れの情景を切り取ったかに見える。

だが、「生活のとある日の暮れ」なんて、ふつう言うだろうか。初句に「生活の」だなんて、大づかみで、人を食った表現と思われなくもない。

「とある日」も、それは何時いつなんだ、と厳格な人なら突っこむところだろう。「ある日」と言うよりも更に、とぼけた感じがする。ま、そんなのはどうでもいいことなんだけどね、そんな日があったんですよ、とでも言っているような力の抜き具合。

白木蓮の終わりの花が散ったなどということは、大方の人にとってはどうでもいいことだろう。そして、そんなことはたぶん重々承知の作者である。

あらためて、三句目以降を見てみると、三句は「ハクモクレンの」と7音になっている。しかも「ハクモクレン」とカタカナ表記。「白木蓮」という漢字表記では、抒情性過多になる感じか。「ハクモクレンの」という表記では、1音1音を意識させつつ、読むときには「ハク・モク・レン・の」と、4音で弾む感じで下の句に続いてゆく。

次に来る「をはりの花」は、「花の終わり」ではない。白木蓮は一気に花を咲かせて、花の盛りには木全体が白い花のかたまりのように見えるが、花の終わりにはうす汚れたような色になって散ってゆく。ここで「をはりの花」と言っているのは、そんなふうに散っていった後にまだ残っている最後の花ということなのだろう。結句の「ことりと散りぬ」からも、枝に残っていた最後のひと花(「最後の一葉」ならぬ「最後の一花」)であるように思われる。

そして、この結句。白木蓮は肉厚な花びらではあるが、「ことり」と音をたてて散るようなものではない。実際に音を聴いたというわけではなく、いかにも「ことり」という音が聞こえたかのような散りかただったと言うのだろう。その散りかたには、さびさびとした可憐さが感じられる。

なんでもない春の日が暮れて、白木蓮の終わりの花が散るところを目にした。たったそれだけのことだが、それだけで、なんでもなかった日が「とある日」に、ちょっとした日になるのである。

生活は、そうした日々の重なりの中にかたちづくられてゆく。

生活。『広辞苑』によれば、「世の中で暮らしてゆくこと。また、そのてだて。くちすぎ。すぎわい。生計。」とあり、「生活に追われる」や「社会生活」の用例がある。だが、それだけではなく、「生存して活動すること。生きながらえること。」という『孟子』からの意味も載っている。

衣食住の細々としたことを任せることのできる人が傍にいて、勤めに出たり、原稿を書いたりしていた頃には実感することのなかった「生活」を、作者は今、実感しているのかもしれない。

「をはりの花がことりと散りぬ」に再び戻れば、「もののあはれ」ということにもつながるようで、散った花に亡き人を重ねて見ているようにも思われてくるのである。

 

あぢさゐの黒き芽吹きに手をふれてとほり過ぎゆくわれのとある日

 

こういう「とある日」の歌もあった。