久我 田鶴子


匂ひの記憶、ではなく記憶そのものの匂ひとおもふ四月の雨は

魚村 晋太郎 『バックヤード』 書肆侃侃房 2021年

 

匂いの記憶、いや、そうではなくて、記憶そのものの匂い。

思い直しや言い直しは、日常よくあることだ。それをそのまま歌にしている。

「匂ひの記憶、ではなく記憶そのものの」と、ここまでが上の句。「匂ひの記憶」の後の読点が効いている。字余りのフレーズを一息に発した後に、思い直して「ではなく」と打ち消していく。会話や思考のなかではよくやっていることも、文字にしてみると目新しい。

雨の匂い。降り出す前の、そして降り出した後の。

湿り気を含んだ空気に、埃の匂いや土の匂い、もっと目には見えない化学物質や放射能など、いろいろなものの匂いが入り交じり、いつもよりも嗅覚を刺激してくる。そんな雨の匂いの記憶がある。

けれども、四月の雨は、それではないと作者は言う。「記憶そのものの匂ひ」なのだと。

記憶そのものの匂い? 「記憶」自体の匂い?

え、何ですかと思う。こんな戸惑いはちょっと楽しい。ちょっとした謎をかけられているようである。謎ならば、自分なりに解いてみたくなる。

〝四月の雨は、過去のさまざまな記憶を引き出す〟ということを「匂ひ」という言葉を使って表現しているのかと思ったりしたが、どうなんだろう。もっと面白い答えが潜んでいるような気もする。

四月の雨、しとしとと降る。草木を育み、花を咲かせる。

春愁。自己の内部から記憶のひとつひとつが引き出されてくるのを手助けするかのように降る、四月の雨。

 

はじめから記憶のやうに降る雨のなかあらはれる桃色の傘

種子のくるしみはめざめるジュラルミンのつばさを濡らす二月の雨に

三月の雨はおとなふ木の肌がなにもおしへてくれない朝も

まだなにかをわすれたいのかゆりの木はからだをひらく五月の雨に

 

二月の雨、三月の雨、五月の雨にもそれぞれの表情がある。