浅き川隔てて向かう岸のあり光のごとく開く鷺草

橋場 悦子 『静電気』 本阿弥書店 2020年

 

鷺草は、夏に白鷺が羽を開いたような形の花を咲かせることからその名がある。山野の湿地に自生するが、今は自然の中で見られるところは減ってしまったらしい。私も鉢植えでしか見たことがない。

この一首は、いまだ鷺草が自生しているところのようだ。

浅い川を隔てた向こう岸、鷺草はそこに咲いているのだろうか。白さが際だって光って見えるのだろう。それにしても、草丈20~30センチほど、花の大きさは3センチほどの鷺草だから、中を隔てているのも小川というほどのものかもしれない。

懐かしい田舎の小景といった感じ。間に川を挟んでいることによって、景に広がりが生まれている。抜け感がある。そこに、「光のごとく開く鷺草」だ。美しさが際立つ。そして、ほっと息がつける。

 

白いところは白い絵の具で塗りつぶすモローの絵には空白がない

 

この歌は、歌集の同じページに並んでいる歌である。こちらは、モローの絵。

ギュスターヴ・モロー、フランスの象徴主義の画家。聖書や神話を題材にした幻想的な作風で知られる。その繊細に描きこまれた絵の愛好者は多いようだが、その絵を作者の目は「白いところは白い絵の具で塗りつぶす」と見ている。塗り残しに表現価値が見いだされるまでは、油絵は全体に絵の具を塗るものであって、白いところには白い絵の具が塗られていたと思うが、モローの絵では繊細さゆえに余計にそう感じられたのだろう。「空白がない」と。

目の敵にされたようで、ちょっとモローには気の毒な気がするが、作者には「空白がない」のがたまらないのだ。白いところにまでわざわざ白い絵の具を塗る必要はないだろうと言いたいのだ。「塗りつぶす」にその気持ちがよく現れている。

空白がほしい。透き間なく塗りつぶされるのはご免だ。そう思う作者は、あるいは息が詰まるような現実に向き合っていたのかもしれない。まさにモローの絵に感じた「空白がない」状態にあって、そこを打開すべくもがいてもいたか。

それに対して、鷺草の咲く岸辺の、ほっとする広がり。モローの絵の対極のようである。その景に元気づけられて、再び苛酷な日常のなかに戻っていけたことだろう。

 

 

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