永井 祐


体操服のままのこどもが弾いている音楽教室すずしいのかな

阿波野巧也『ビギナーズラック』

 

この歌ははじめに見たときから気になりましたが、
ちょっと読み方に迷うところがあった。
それは結句の「すずしいのかな」のところなのですが、
そこにいく前にはじめから。

街の音楽教室、みたいなところなのでしょうか。
窓から中で弾いているところが見える。先生がいてこどもを教えている。
はじめはクラスがあって、その中の一人が体操服なのかと思いましたが、こどもは一人と考えるほうが自然かもしれない。
その子は体操服でピアノを弾いている。

ここ、絵がすごく浮かぶ。窓ガラスの向こうで、音はきっとほとんど聞こえない。
弾いているこどもの服が体操服であることに気づく。
「体操服」は学校の体育の授業で使うような、半袖半ズボンで上は白、下は紺とかのやつかと思います。
明確におかしいわけではないけれど、ふつう音楽教室で着ているものでもない。だからちょっと目にとまった。

で、「すずしいのかな」。
わたしの解だと、わかりやすくいうと「(体操服は)すずしいのかな」。
体操服のままで弾いていると、すずしくて、気持ちいいのかなという感じかと思いました。
でもこれにたどりつくまでにちょっとかかって、
「(音楽教室の中が)すずしいのかな」なのかとも思いました。
文の流れ的に、同じ視点から体操服を着ている理由を推測する「~のかな」なのかと思った。
しかし体操服はそもそもすずしい格好であるからして、これは違ってくる。

ここのところ、「音楽教室」から「すずしいのかな」にいくところで、
位相がちがっているというか、なにげなく気がつくような位置から、「こども」の今に同期・共感していくような位置へと変わっている。
ここがたぶん大事なところ・面白いところで、散文の論理でいくと上のようにもとの位置から体操服の理由を推測する流れになるはずだと思うんだけど、
韻文というか歌の呼吸の中で、ここに位置や時間のスキップができて、「(あの子はいま)すずしいのかな」が出てきている。

一字空けなんかしてあるとわかりやすいのかもしれませんが、やはりない方がかっこいいですね。
きっとわかりづらいところでもあり、すごいところなのかと思います。
「体操服」に気づくところまでだと、他ジャンルの表現に翻訳可能なよさになる気がします。そこも好きなんですけど。