赤子という言葉を思う静けさのなかひたすらに赤を拭った

藤宮 若菜 『まばたきで消えていく』 書肆侃侃房 2021年

 

自分が赤子を〈産む〉存在であることがまだよく理解できないうちから、女性の身体は〈産む〉準備をはじめる。それから周期的に訪れる生理。経血を拭いながら、いつまでも子どものままではいられないことを思い知らされる。

「赤子という言葉を思う」、妊娠・出産は、まだ観念の域。それでもそのことに思いをめぐらせる、その時間の「静けさ」。実際の行為としては「ひたすらに赤を拭った」をしているのである。赤は、血の赤。流れ出る経血の処理をしているのである。

赤子の「赤」と、ひたすらに拭う「赤」。「血」と言うことは避けられている。肉体から離れては語れないことだが、あくまでもここは言葉の域に留めておこうとするかのようだ。

 

汚物入れに群がっている蠅蠅よ聞いてわたしも人が好きだよ

 

こちらは、いきなり「汚物入れ」である。トイレの個室の隅に置かれている、使用済みのナプキンを入れる容器。蓋がきちんとされていなかったり、中の物が溢れていたりして饐えたような臭いを放っていることもある。

その汚物入れに群がっている蠅蠅に向かって呼びかける。「聞いてわたしも人が好きだよ」と。

この汚物のもとは、人(もっと言えば、女性)。だから、そこに群がっている蠅は人が好き、という論理になるらしい。で、「わたしも」という言葉になる。自らも周期的にこの「汚物入れ」を利用する存在であるけれど、そういう「人(女性)が好きだよ」と蠅になら言えるというのだろうか。

思いも寄らないものへの呼びかけと心情吐露となれば、穂村弘の歌「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」が想い起こされる。穂村作品は、サバンナだし、象のだし、乾燥していて無臭な感じであるのに対して、こちらは人の身体から流れ出たものの臭いと湿りに満ちている……。それでも「好きだよ」と作者は言うのである。女性の生理を引き受け、そこにすっくと立ってみせる。

それにしても、「汚物入れ」とはね。生理そのものが「汚物」に、更には女性も「汚物」につながるような言われ方ではないか。血を穢れと見て、出産や死を遠ざける文化が日本の歴史にはあったけれど、この言われ方は何とかならないものか。

コロナ下のニュースでは、生理用品も買えないような貧困に喘いでいる女性たちのことが伝えられている。こちらも何とかならないものか。

 

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