黒木三千代 角川書店 「短歌」2021年8月号
「尖塔」12首より。
「とことはに」は「常永久に」。永久に、とこしえに、ということ。
「また新しく」は、そしてまた新しく、ということか。
「とことはに」ずっと変わらずに続くことを言う一方で、日々更新される〝君への恋〟を言うのである。ずっと変わることなく、そしてまた日々に新しく。たとえ、きみが老いて病んでも、わたしにとって高く聳えている尖塔なのだからと。「きみを恋ふ」思いは、揺らぐことがない。
かく宣言するのは、周囲から〝君への恋〟を阻まれそうになっているからであった。
面会は出来てゐたのだ乗り継ぎをくりかへし行きしきみのアジール
こひびとよ思ひと違ふ〈ご家族〉の意思にあなたが隠されてゆく
ふろしき包みひとつかかへて身を売りにゆく夢の背に牡丹雪降る
阻んでいるのは、きみの〈ご家族〉。これまでは面会できていたのに、コロナ禍のなかで面会するには、〈ご家族〉の許可が要る。ところが、その〈ご家族〉は会わせてくれようとはしない。きみの思いも、わたしの思いも、〈ご家族〉の意思の前に取り合ってもらえない。〈ご家族〉の意思によって、隠されてゆく「あなた」。ふろしき包みひとつを抱えて身を売りにゆく夢は、抑えることのできない「きみを恋ふ」思いが見させたのにちがいない。
この作者の第一歌集は『貴妃の脂』(1989年刊)。その中に忘れられない歌がある。
さうたうに軌道はづるる生き方もしてみよみよと三月の猫
老いほけなば色情狂になりてやらむもはや素直に生きてやらむ
「老いほけなば色情狂になりてやらむ」にドキリとし、こういうことも歌にすることができるのだと目を開かれたのであったが、要は〝いかに生きるか〟ということなのだと思う。
相当に軌道を外れる生き方というのも、世間の通念に照らしてであって、それに対して善も悪もない。「色情狂」という言葉にはビックリさせられるけれど、つまるところは素直に生きるということである。
けれども、素直に生きるということが、思いのほか難しい。世間体だの、〈ご家族〉だの、いろいろなものに配慮しはじめると、身動きが取れなくなってしまう。
「きみのアジール」と言い、「老いて病んでも尖塔」と恋う人にとって、恋はあるいは信仰に近いのかもしれない。聖なる領域に聳え立つものに、身も心も傾けてゆく人の強さを思った。