久我 田鶴子


受け入れてゆくべき日暮れ誰もゐない椅子があたたかかつたそのこと

西巻 真 『ダスビダーニャ』 明眸社 2021年

 

ちょっと分かりにくい歌だが、なぜか心惹かれる。

「受け入れてゆくべき日暮れ」で切れて、「誰もゐない椅子があたたかかつたそのこと」と名詞で止まっている。

一日が終わろうとする日暮れに「受け入れてゆくべき」と思っているのかと初めは読んだのだが、日暮れを、そして、誰もゐない椅子があたたかかったそのことを「受け入れてゆくべき」と思っているのかもしれない。「日暮れ」自体に特別の意味合いがあり、あるいは作者のなかに「あの日の日暮れ」と特定される日暮れがあるのかもしれない。

誰もいない椅子があたたかかったのは、今までそこに座っていた人がいたからだ。

だが、今はいない。温もりだけが残されて、いたはずの人は失われてしまった。もう戻ってくることはないのだろう。

「誰もゐない椅子があたたかかつたこと」ではなく、「誰もゐない椅子があたたかかつたそのこと」と表現されていること。

7・7の音数に合わせるということもあったかもしれないが、前に述べたことを抱え直すような「そのこと」からは、溜息が聞こえてきそうだ。椅子に残された温もりを愛おしく手のひらでなぞる姿も見えてきそうである。

さらに、「あたたかかつた」という、「た」と「か」が重なるひらがな表記と促音の響き。くしたものを求めて泣きじゃくっているようにさえ思われてくる。

その日暮れの出来事は、すぐには受け入れがたいことだったにちがいない。けれども、時が経って「受け入れてゆくべき」と思うことのできる日がようやく来た。

人は確かに傍にいたのである。今は失われてしまったとしても、あたたかくそこに存在していた「そのこと」。その記憶は、身の内を今もあたたかくするのではないだろうか。

 

丘に誰もゐないしづけさ名を呼べばこゑがとほくへ消えてゆくこと

斜線のみになりたる戸籍謄本のひとすみに我の名は残れり

母が抜け父が抜け祖母が抜けた家わたしが抜けてつひになくなる