多摩川のながれのかみにそへる路麦藁帽のおもき曇り日

若山牧水『死か芸術か』

 

大正元年に刊行の第五歌集『死か芸術か』から。
この歌はとある評論に引用されていたのが印象的で覚えていました。
今ちょっと手元になくて引用できないのですが、その評論は、
この歌は「散漫」だけど、そこに面白味とか新しさがある、というような内容でした。

「散漫」。注意散漫とかの「散漫」だと思います。気が散っている状態。
その反対が「集中」。集中力を発揮していて仕事などでもミスを起こさないような状態。
近代の短歌は「集中」が強く、その中でこの歌は、「散漫」の状態を歌に定着させている。そこに新しさと可能性がある。
とても雑にまとめるとこんな感じ。
ここには、近代の人間観ってけっこうあるんだと思います。人間、物事に集中して一生懸命やらないといけないという。「散漫」ではいけない。ちゃんとしていこう、みたいな。
今でもあると言えばある。

 

白鳥しらとりかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 

牧水でも初期の有名なこの歌は、「集中」っぽい気がします。白鳥の一点に心が集中していく。
『死か芸術か』は、またおおざっぱに言うと精神的にへこんでいる歌集で、けっこう乱れている。そのあたりが何か面白い歌が、ぱらぱらめくっていても拾える。

今日の歌。
「ながれのかみ」は、上流ということだと思います。
「路」は「みち」と読む。だから、多摩川の上流に沿った道をいくところ。
それで「路」で一回切れて話題がスライドし、麦わら帽子が重いなあと思っている。
たしかに歌全体に散漫な感じはする。読みどころというかフックがない。
上下句両方とも体言止めなのも、なんとなく感動がないような感じがある。
麦藁帽子が重いというのは、でも印象に残りました。それほど大きなものをかぶったことはありませんが、わりとリアルな使用感を感じる。「曇り日」なので太陽光を防ぐという目的も曖昧になり、ただちょっと重い。首がだるくなる。
目の前には大きな川に沿っている道がある。それをこれからずっと歩いていく。
直接言わないまま、その場の全体的なこととして、真ん中からわずかにローぐらいの気分とかバイブスが伝わってくる感じがします。
僕はこの歌はけっこう好きです。「散漫」の評論に納得したように、この感じを歌にすることに意味があるようにも思える。

ほかに『死か芸術か』から。

 

夏となり何一つせぬあけくれのわれに規則のごとく歯の痛む

 

かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ

 

二首目、「かんがへて」も「の」も面白い。

 

 

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