身悶えの果てに緋色の糸を吐き出して妖しきははそはのひと

小佐野 彈 『銀河一族』 短歌研究社 2021年

 

「ははそはの」は「柞葉ははそばの」で、「母」にかかる枕詞。かかるはずの「母」は無いが、「ははそはのひと」で母を表している。直接「母」と言うより、「ははそはのひと」には対象として見る距離があるようだ。

「ははそはのひと」は、なにか苦痛を感じるようなことがあったのか、身悶えの果てに緋色の糸を吐き出す。その姿が、なんともなまめかしくも妖しい。そんなふうに子の目に映っている。

身悶えの果てに吐き出した緋色の糸とは、妖艶なる色香のビジュアル化か。性的魅力に満ちた母親の、圧倒的に美しい姿。それを少し離れたところから眺めている息子。華麗なるイラストが描けそうである。

繭をつくる前の蚕は、首を上げて動きを止め、身体全体が透けるような色になる。ずっと昔、そうなった蚕を誤って踏みつぶしてしまったことがあるが、中から粘膜につつまれた糸の束が出てきた。すでに蚕の内側には繭をつくるための糸が整っていて、次に動き出すときには、その糸をただひと筋に吐きつつ自らの体を包み込んでゆくのだ。体の内にあったものを吐き出して、それで体を包み込む。さらに、包み込まれた体はサナギになり、羽化の準備がなされてゆく。なんという営為!

「ははそはのひと」の見せている姿も、糸を吐く蚕の大変身を思わせる。しかも、「緋色の糸」とは! いのちを絞り出したかのような色合いである。

「緋色の糸を/吐き出して」と読めば、すっと読めてしまうが、「身悶えの/果てに緋色の/糸を吐き/出して妖しき/ははそはのひと」と5・7・5・7・7で切ると、「吐き出して」とはなっていない。「糸を吐き/出して妖しき」となり、ちょっとしたシンコペーションが生じている。「出す」ということが「妖しき」のもとになっているようにも読める。

 

この母にしてこの子ありわが胸の奥にもあらむ 糸の泉が

 

圧倒的な魅力を放つ母親の前に、息子は如何ばかりと思えば、全く心配には及ばない。「この母にしてこの子あり」だという。自らの胸の奥にも、「ははそはのひと」が持っているものがあることを確信しているようである。

 

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