革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ(前編)

塚本邦雄『水葬物語』,1951

言わずと知れた塚本邦雄の第一歌集、『水葬物語』の巻頭歌です。この歌に関しては、これまでにたくさんの人によって、様々な解釈がなされてきました。塚本邦雄の作品の中で、もっとも言及されている歌の一つでしょう。

 

革命歌は「歌」である以上は、音やリズムがあって成立するものです。しかし、その音やリズムを奏でる役割を果たすはずのピアノは、今まさに、すこしずつ「液化」が始まっている。「液化してゆくピアノ」そのものを想像すると、なんだかとてもグロテスクです。
そして、リズムがなければ成立しないというのは、短歌もほとんど同じことが言えるのではないでしょうか。

 

わたしがここで注目したいのは、ピアノという楽器が選ばれたこと。
そしてピアノに凭れかかるのが作曲家ではなく、作詞家であるということについてです。
ピアノは歌詞、つまり言葉を音楽にのせるための、また革命歌を〈歌〉として完成させるための道具です。
この一首の構造上は、凭れかかる作詞家を支える〈器〉のようなものとしても機能しています。

 

そしてピアノは、鍵盤が規則正しく並んでいる楽〈器〉です。
一オクターブは五音と七音から成る十二音階で構成されていて、それは五つの黒鍵、七つの白鍵から成り立っています。
言うまでもなく、短歌も、五音と七音の韻律によって成り立っているものです。
この歌においては、五音と七音から構成される、ある決まった音階を奏でていたピアノの鍵盤のひとつひとつが、ぞろぞろと、あるいはばらばらと、歯の欠けるようにほどけ、液化している。
ともするとこれは、五・七音の韻律の崩壊の喩ではないでしょうか。「液化してゆくピアノ」は、滅亡論を唱えられている短歌という詩型そのものだと捉えるのです。

 

さらに、そこで描かれているのは、ただ寄りかかるのではなく、凭れかかる、すなわち、だらしのない姿勢で作詞家がピアノにからだを預けている様子です。
そのピアノはただ壊れるのではなく、作詞家に凭りかかられることで液化していくという。
ともするとこの歌は、「ピアノ」で暗示される五七五七七という詩型に、「作詞家」で暗示される歌人が頼り切り、それを破壊しつつあることの諷刺である、という考えすらよぎります。

歌の内容に焦点を当てると、じつは短歌の滅亡というものが暗喩されているのではないか……これは、当時の文芸評論家たちが紙幅を尽くして論説していた内容を、たった三十一文字で体現している、ということになりそうです。

(つづく)

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