梨の実はゆふくらがりに瞑目す死ななければ生きられなかつた人に

河野美砂子『ゼクエンツ』(砂子屋書房、2015年)

 

「梨の実月」という一連から。梨の実のなる頃、ということで、ここでは九月のことをこう呼んでいる(そういう異称があるのかもしれない)。その梨の実が、眼前におもたく垂れて瞑目している。

 

「死ななければ生きられなかつた人」というのは、死ぬことによって生きることを選んだ人のことである。もうすこし絞って、一連のなかでは、「みづから死」ぬことを選んだ「友」のことを指す。その友をおもって瞑目し、哀悼の意を捧げるのであり、そこにおのずからわたしの姿がかさなって映る。

 

夕どきの暗がり。たそがれと言ったらいいか、宵の口へかかるころか。「ゆふくらがり」のどことなく異国語的なひびきが、遠く死後の世界をおもわせながら、一方で、その薄闇にわたしと友との境のあいまいになるところがあって、そこにふたりの接近がある。あるいは瞑目するのは友自身であるのかもしれない。

 

一首の祈りはある普遍的な広がりを含みながら、しかし末尾の助詞の「に」が引き寄せるのは、ある固有の閉じた世界である。ふたりの濃い時間が、実りのように蜜のようにつめたく滴る。

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