酒に酔ひ汚れて帰り来し夫が苦しみ寝入るまでを見てゐつ

大口玲子『トリサンナイタ』(角川書店、2012年)

 

「帰り来し夫」は「かえりこしつま」と読んだ。

 

うたのわたしは、酒に酔って帰ってきた夫が、苦しみ苦しみ、ついに寝入るまでを見ている。こういうとき、目をそらさずにじっと見つめる、というのがいかにも作者のうたらしい。じっと見て目を離さないというのは、このうたに限らず歌集全体を貫くひとつの姿勢である。

 

酒に酔って「汚れて」であるから、それはそれは飲んで帰ってきたのだ。この「汚れて」はじっさい食べもの飲みものをこぼしてとか、道で転んで塀でこすって、嘔吐してとか、酒臭いとか、いろいろ具体的に考えてみることもできる。一方で、酔っぱらいの醜態というものがあるが、そういうのを指しているともおもえる。いずれにしても醜い、汚い姿が、眼前にあるわけだ。

 

その夫が、苦しんでいる。うう。水をくれ、と言っているかもしれない。暴言奇声のたぐいがあるかもしれぬ。眠くてしかたがない、目が回る、頭が痛い喉が痛い、腹が痛い、転んで体が痛い、血が出ている。苦しみのわけはさまざま。それだって放っておけばたちまち眠ってしまう。痛みはあくる朝残る。その一部始終を、かまうでもなく、手を差しのべるでもなくただただ見ている。(というところだけを、少なくともうたは抜き出してえがいている。)

 

動詞が多いのが一連のどたばたを見るようでたのしい。そこに仔細がないのも酔っぱらいの姿である。一方で、見る側のわたし。「見てゐつ」の助動詞「つ」には、おのずからではない見るという意思と、目をそらすまいという圧がこもる。それはすなわち己をも刺すと知っていながら。

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