革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ(後編)

さらに、「革命歌作詞家」ついても考えてみましょう。

この歌の登場人物は〈革命家〉ではなく、革命歌の「作詞家」です。
人々を革命へと扇動する役割を帯びた者なのです。

 

そしてピアノという楽〈器〉を液化させることができるのは、ただの作詞家ではなく、革命歌の作詞家です。
そのかれがピアノを液化させることで、そして語り手がそのことをわたしたちに語りかけることによって、ここでは実際に全く新しい歌が創り上げられている。

 

塚本邦雄は、批判されている短歌の現状を前に、「短歌という詩型では・短歌という詩型だからこそ、こんなことができる」ということを、たった一首の歌でパフォーマティヴに表現したと考えるのです。単に厭世的であったわけではなく。

 

短歌否定論や滅亡論を唱えていた人々は、短歌をただ否定し、滅亡に導くためではなく、

「新しい文学」の創造のためにそれらを唱えていた、ということを思い出さなければなりません。
(ある意味では、これらの否定論・滅亡論によって、定型の意味や可能性が探求され、

短歌は自滅の危機から救われた、ということは、すでにいくつかの先行研究において示されているとおりです。)

 

多くの歌人たちが怠惰に頼りきっていた短歌という詩型の現実に目を向けて、他ならぬ短歌という詩型において、真摯に闘った。

塚本邦雄という歌人は、現実から目を背けて、幻想や虚構の世界に生きていた人ではない、ということを、わたしはずっと考えています。

 

 

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