革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ(中編)

(つづき)

しかしながらこの歌の形式は、五七五七七の韻律にのっとるような作りをしていません。
むしろこの歌は、三句目以外が句跨りとなっていて、規則正しい五・七音のリズムを破壊しています。
この句跨りによって、言葉が次の句へと「液化して」、滑らかに続いてゆきます。
革命歌作詞家は「ピアノ」、つまり詩型に「凭りかか」ることによって、新たなリズムを現出させているのです。

 

歌の内容においては「短歌の滅亡」や「詩型に頼り切る歌人の図」を諷刺しており、歌の形式においては、その内容を鮮やかに裏切っている。

 

昭和初年代の自由律短歌の隆盛と衰廃によって、短歌にとって五七五七七の韻律はむしろ決定的なものとなりました。
その失敗を経験したのが邦雄の前の世代。さらに、この歌の作られる少し前は、立て続けに短歌滅亡論、否定論が唱えられていた時期でもありました。

 

こうした時代背景を踏まえたこのうたの解釈のうち、代表的なものが三枝昂之氏による以下の解釈です。

 

歌の場面を、革命歌の作詞家がピアノにもたれかかっている図、と読んでおこう。ピアノが革命歌の伴奏をさせられている図でもよい。前者のコースで読めば、作詞家は得意気なポーズでピアノにもたれかかり、ピアノは少しずつ溶けてゆく。作詞家に対するピアノの嫌悪がそこに現れる。後者の場面を想定すれば、歌の劣悪な歌詞に伴奏を強いられたピアノが拒否反応を起こしている。どちらで読んでも、一首の主題は革命歌への侮蔑、すなわち革命への侮蔑である。侮蔑を侮蔑のまま表現したら、ピアノの繊細さを理解しない革命歌作詞家と同じになってしまう。だから非現実的で暗示的な場面を通じて、侮蔑を詩の説得力にしているのである。(中略)

内容的には戦後文化の軽薄への厳しい侮蔑、韻律的には〈奴隷のリリシズム〉とは異質の「新しい調べ」。そうした困難なモチーフを斬新な表現力によって作品の新しい魅力に転化したところに、占領期における歌人塚本邦雄の面目がある。

(三枝昂之『昭和短歌の精神史』より)

 

三枝氏が「内容的には戦後文化の軽薄への厳しい侮蔑、韻律的には<奴隷のリリシズム>とは異質の「新しい調べ」」と指摘したように、革命歌に対する諷刺であるかのようにも読めるこの歌こそが、方法のうえではまさにこれまでの歌に対する「革命」の歌となっているわけです。

形式と内容の相反が、短歌では、むしろ、短歌という限りある詩型だからこそ、簡潔に表現することが可能であり、力強く機能する、ということが体現されているのです。

(つづく)

 

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