いちめんの白詰草の中に立つアパートは詩か目を閉じて見る

嶋稟太郎『羽と風鈴』書肆侃侃房,2022

 

見るために目を閉ざす、ということを語っていた歌人は、わたしの把握しているよりもきっと少なくないのだろうと思います。
例えばやさしく、〈「現実」と二項対立に置かれる「幻想」〉のまなざしを指して、そのような言葉にむずびつけてしまう場合もあります。
一見、同じことようなを言っているようでも、この歌の場合はちょっと様子が異なるようです。

 

「いちめん」は、「あたりいっぱい」という意味をもつ言葉。けれど、副詞として「一面的」と使われる場合のように、ある一つの面にかたよっている、という意味合いも抱いている。
ここでは、ひらがなで「いちめん」とひらいて書くことで、そのネガティヴな要素は薄れ、より「あたりいっぱい」という意味のほうが強調されているようです。

 

そして「白詰草」も、しばしば日常生活で見かける植物の片仮名表記(「シロツメクサ」)とくらべると、白い花がぎっしり群れて咲いている、というような、視覚的な効果のあるのがわかります。

 

さて、問題は下の句です。「アパートは詩か」という語り手の吐露。「目を閉じて見る」は、「ためしに~してみる」の意味だとしたら、「見る」はひらがなに開かれているはずなので、ここでは「目を閉じる&見る」の意味でとりました。
でもそうすると、ちょっと不思議。「目を閉じて」いるのは誰で、「見る」のは誰なのか。

ここで、作者イコール作中主体、あるいは語り手という構造はぐらぐらします。

このことについては、これからも、さまざまな作者によるいろいろな歌で読み込んでいきたいと考えています。

もうひとつ、この歌集のお気に入りの歌を。

 

夜半われの眼裏まなうらに目をひらきたるダイオウイカよこの頃は見ず

 

目を閉じている〈私〉と、目をみひらいている「イカ」、そしてその「イカ」をこの頃「見」ない〈私〉。

とりどりの〈私〉たちの距離感のとても、とても気になる歌たちです。

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