さきにいた熱とけんかをする熱だゆっくり夏のお粥をすする

山階基『風にあたる』(短歌研究社、2019年)

 

「お粥」といったら、わたしにとってはまず、風邪をひいたときに食べるものだが、それもひとり暮らしをするようになってからは、ほとんど食べなくなった。そうすると「さきにいた熱」というのは風邪ひいてあがった体温のことであり、そこにお粥の熱いのがやってきて「けんかをする」わけだ。弱っていながらたのしげな一首である。

 

しかし一冊を読んでいくと、そしてそこにえがかれた暮らしの風景をながめていると、必ずしも風邪という状況にこだわらなくてもよいと、おもわれてくる。「夏のお粥」であるから、「さきにいた熱」というのは夏の暑さのことをいうのかもしれない。風邪でなくともお粥は食べるし、お粥を食べるからといって風邪ともかぎらない。いずれにしても、ふたつの熱を書き分けて、それが「けんか」をすると言ったところがチャーミング。そのけんかを味わうみたいにして「ゆっくり」お粥をすするのである。

 

けんかをする、というと今ではいくらか慣用的にも使うが、ここではわりに本気の(?)「けんか」を想像する。「さきにいた」の「いた」や、「けんかをする」の「する」が、「すする」わたしと同等のようにおもわれるからだろう。熱に体はないけれど、熱と熱とがおりゃおりゃ殴り合い、蹴り合い、つかみあいして、それをあるところではよろこびながら、ぼんやりとして夏のひとときが過ぎていく。

 

「ゆっくり」の位置がいい。

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