ふるさとはハッピーアイランドよどみなくイエルダろうか アカイナ マリデ

鈴木博太「ハッピーアイランド」『短歌研究』2012.09

 

2012年、第55回短歌研究新人賞の受賞作から。

語り手による奇抜な口調が、まず目に残る。読み手は親しみのない文体に滲み出るような居心地の悪さを感じ、自身の理解の及ばなさを、想像力の至らなさを思い知る。

 

鳥籠の後ろの正面惨後憂き上は大水下は大火事
とりあえず窓を閉め切り出来るだけ出ないおもてに奔と卯のそら
ワレワレハふくすぃマジンダ ハリボテの大地のうえによみガエルまで

 

選考会では、同じ発音をもつ言葉の意味やリズムが組変わることで、見た目上は昔と変わらない風景の放射能による変質を表しているのではないか、という読みが提示されていています。その後も「惨後憂き」は水素爆発の起こった福島第一原子力発電所の「三号機」のこと、「奔と卯のそら」は智恵子抄の「ほんとの空」のことだろう、など、この一連は〈フクシマ〉を下敷きにすることで”解読”されてきました。

なかでも当時、新人賞の選考委員からも「わからない」と言われていたのが、今日とりあげた歌でした。

 

これまでも、例えば「赤信号」や「レッドライン」といった言葉で、「赤」は身に危険の迫るものを示す役割を果たしてきました。ここでの「赤」は、震災を、そして原発事故を経験したわたしたちにとって、さまざまなことを想起させます。

例えば、テレビで放映されつづけた津波警報では、沿岸部が真っ赤なラインで囲まれていました。そして放射線の分布図において赤は、濃度が最も濃いところとして示される。
「アカイナ マリデ」は「赤い訛りで」、つまるところ「汚染されてしまった訛りで」という意味ではないのかな、と推測します。訛りすらも放射能に汚染されてしまったのだ、と、なかば自虐的に述べている、表情の見えない〈私〉。

 

(そしてまた、わたしは作者の鈴木博太さんと同じ福島県いわき市の出身で、例えば表記の不思議な「ふくすぃマ」は、発音するうえでは「ふくしま」よりもかなりやさしい。より浜通りの方言に寄せてこの歌について話すと、浜訛りで「り」と「る」は似たイントネーションを持っているので、するとこの歌の「アカイナ マリデ」は「赤いな まるで」とも聞き取れて、先に挙げた危険を示すものとしての「赤」を「ハッピーアイランド」に背負わせて、「まるで(さながら)赤いな」=「危険なところだけどな」と言っているのかもしれないとも思う。)

 

この歌は、そしてこの「ハッピーアイランド」歌群は、一回限りの方法を展開させています。二度同じ手法でこれらの歌は作れない。それは言葉にすることで永遠を手に入れるのではなく、寧ろ言葉にすることで、〈私〉の一回限りの生と死を体現しているようでもあります。

連作を見渡してみても、作中主体の表情は浮かんできません。何度もなんどもくりかえし読むことで、ぼんやりと〈私〉の捉えどころの無さが見えてくる。ここには、意味の突き刺さるような震災文学とは明らかな隔たりがあります。短歌という詩型だからこそ成功した表現の方法だったのだろう、と、11年目の今日、ふと思ったのです。

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