左手に右手を重ねるだけでカニ。好きだと言ったら笑ってどうぞ

石井大成『キラーチューン』(私家版、2021年)

 

「左手に右手を重ね」てカニ、というのは影絵あそびのひとつ。十本の指を、そのまま十本のカニの脚に見立てる。簡単な見立てではあるけれど、わりにそれっぽくなる。影絵になるとなおさら。

 

ここで「だけで」には、「好きだと言」う行為を簡単なものとして導きながら、そういって自分をふるいたたせるようなところがある。あるいは「好き」という気持ちまでをも、かるいものとしておもおうとしている。

 

たとえば君のことが「好き」で、それを伝えようとおもう。「僕」の気持ちが君の気持ちに沿うかはわからない。そうあったらいいな、とはおもいつつ、必ずしもそうだとおもいきれない。そうでなくてもいい。言っちゃおう、と。ときは過ぎ、関係は変化していく。自分自身さえ変わる。そのことへの、焦りがあるのかもしれない。

 

だから、「好き」と言うから、そこで「笑って」流してほしい、困らないでほしい、それくらいのことにしておいてほしい。というのは、そうすることで傷つく自分をあらかじめ庇うかのようだ。なにかが変わってしまうことへの、おそれでもある。でも、ここにはある懸命さと、照れと、ふがいなさがあって、そのひとつひとつになんだか悲しくなってしまう。

 

うたは一冊のはじめの連作から引いた。なかったことにはならない、あのころの「僕」が、痛いくらい鮮やかにふるえる一首である。どこか早口な一首の、さいごには「どうぞ」と言ってゆだねてしまう「僕」が、たしかにあったのだ。この一連のさいごの一首をかたわらに置きながら、つづきを読んでほしい。

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