革靴にさくらはなびら踏みしだく生のあはひに桜はそびゆ

門脇篤史『微風域』現代短歌社,2019

 

わたしたちは桜を目にすると感傷的になる。どうしても。日本に住むひとびとにとって、春は別れと出逢いの季節であり、その記憶の背景につねに桜はそびえています。

この歌の作中主体も、「革靴」を履いていることから、何かしら身だしなみを整える必要性のある場面に置かれている、と読みました。

 

上の句で「さくら」は踏みしだかれる「はなびら」であり、下の句でそびえているのはその花を散らす桜木のほう。ひらがなでの「さくら」と漢字表記での「桜」は、単なる字面の問題だけではなく、抱かせる意味合いもはっきりと区別されているようです。

 

ただしそうすると、かみしもの視線がかみ合わない。桜の花びらを見ている視点と、桜の木のほうをとらえている視点とが、じつはとても自然に、いつの間にか歌の中で融合していることに気がつきます。

 

視線を落として、散った「さくら」の花びらを見ている作中主体、そのいっぽうで、生き生きとそびえる桜木をまなざす〈私〉。そこにうまれる、不思議な時間軸。

その両方のまなざしを繋いでいるのが「生のあはひ」という表現。「生と死のあはひ」ではなく、生か、そうではないか、のあわいだという。

 

すでに何かの遺体の一部である革靴で踏みしだくことで、〈生〉からかけ離れてゆく「さくら」の花びら。この歌の世界で〈死〉は、語り手による直接の言及が避けられていますが、その行動は「あはひ」の向こう側の世界をまるで見通しているかのようです。ここに、この歌のほの悲しい煌めきを感じたのでした。

 

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